歯車

 「私は身を横たえて、眠る。
 私はまた目をさます。
 主がささえてくださるから。」(詩3:5)

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 「私は身を横たえて、眠る。私はまた目をさます」、その営みはあたかも機械の歯車かのようだ。
 あわてずさわがず、声も出さず特に主張もせず、淡々とおんなじ速度で隣の歯車とかみ合いつつ、ごく自然と回り続ける。
 その隣の歯車に歩調を乱されることも、ない。
 「主がささえてくださるから」。

 「この歯車」がないと、多分どこかしらが困り果てるだろう。
 けれども逆に、「この歯車」があるからといって「歯車さん、ありがとう」とありがたがられることは、まったくない。
 暗黙の内に、「そこ」できちんと役割を果たせばよしとされる、「この歯車」。
 「私は身を横たえて、眠る。私はまた目をさます」、その繰り返し。
 「主がささえてくださるから」できることだ。
(それを明確に意識しようとすると、歯車の速度がぎくしゃくするような気がする。)
 そして週に一度、「主」がグリスを丁寧に塗り込んでくれる。
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