求安録について

上の部
 悲嘆
 内心の分離 (英語は略す)
 脱罪術 その一 リバイバル
 脱罪術 その二 学問
 脱罪術 その三 自然の研究
 脱罪術 その四 慈善事業
 脱罪術 その五 神学研究
 神学校
 忘罪術 その一 ホーム
 忘罪術 その二 利欲主義 (英語は略す)
 忘罪術 その三 オプティミズム(楽天教) (小見出しを略す)
下の部
 罪の原理
 喜びの訪れ
 信仰の解
 楽園の回復 (英語は略す)
 贖罪の哲理
 最終問題
(内村鑑三「求安録」の「見出し」、教文社全集1所収版より)

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 昨年9月22日、上の引用と一字一句違わない引用で、私はかなり長く書いている(こちら)。

 「求安録」。
 内村鑑三の、ごく初期の著作だ。
 この本は最後、次のように閉じられる。

 「さらばわれは何なるか
  夜暗くして泣く赤子
  光ほしさに泣く赤子
  泣くよりほかにことばなし」

 三日ほど前だろうか、ひさしぶりに上のエンディングを思い出してはうすぼんやりと考えていた。
 「『安き』を得た心理描写なのだろうけど、泣いている赤ちゃんよりもおっぱいを含んでいる赤ちゃんの方がずっと安らかそうじゃないか。」
 つまり、この三日前には、この閉じ方に不服を覚えていた。

 昨日あたりから、再度考えが変わって、いやいやいいの「泣く赤子」で、と、それはもう、心から「そういうもんだ」という思いになってきた。それで今日、これを書いている。

 「さらばわれは何なるか。夜暗くして泣く赤子。光ほしさに泣く赤子」。
 おっぱいが欲しくて泣き騒いでいる、これ以上ないほど弱っちい赤ちゃん、私はそういう存在でしかない。
 鑑三はそう書いた。

 生まれたばかりの赤ん坊に「思い」はない(はずだ)。
 けれど、もし赤ちゃんに「思い」があるとするなら?
 メシくれ、ここは暑い、寒い、なんかぬれててすごく気持ち悪いからどうにかしろ!
 その不満を、泣き叫んで解決しようとする。俺にはできねえからお前がやれ(くれ)。
 弱っちいくせにわがまま三昧、感情のけだもの。
 ひょっとすると赤ちゃんというのはそういうもの、かも知れない。
 自分が一番弱っちいくせに、自分が世界の王様かのようだ。

 「求安録」に戻って、内村鑑三が「赤子」についてどういう概念を保ちつつあの最後を書いたのか、それはもはや分からない。
 だから、鑑三の思いと私の今の思いとは、ずれていると思う。
 今の私の思い、それはこうだ。

 「さらばわれは何なるか。夜暗くして泣く赤子。光ほしさに泣く赤子」。
 弱っちいくせにわがまま三昧、感情のけだものであるこの「赤子」。
 この「赤子」は自分だ。
 自分のその「赤子」ほどの弱さわがままさに納得がいって、でもそれでいいなと思えたとき、「求安録」、そう、私も心底からの安きを得ている。
 「弱いわがままな自分」と仲直りができたという感じだ。

 私も単なる「泣く赤子」にすぎない。
 ただ、自分は世界の王様ではないし、「それ」になりたくても到底なれるものでもない、ということも(当たり前だが)納得ずくだ。
 腹が減ったら自力調達できる(簡単なのなら、ちゃちゃっと作ることもできる)。
 もちろんトイレに行けるし、洗濯機を回し物干し竿を使って乾かすこともできる。

 さて、冒頭に見出しを引用した。
 昨年9月22日には、この見出しの「上の部」について、なにやら書いた。
 今日は「下の部」について書こう。

 この本をかじりつきで読んでいたのは……どれくらい前のことだろう? ちょっとよく覚えていないくらい前のことだ。
 何故読んでいたか?
 「安き」が欲しかったからだ、それも心底から。
 「安き」の「こたえ」、それは一体どこに載っているのだろうか? と。

 罪の原理
 喜びの訪れ
 信仰の解
 楽園の回復 (英語は略す)
 贖罪の哲理
 最終問題

 「そうか! ここにこそ『こたえ』があるのか!」、そう思わせてくれる見出しが並ぶ。
 無論それは錯覚にすぎない。そんな当たり前のことに気付いたのは、実はつい最近のことだ。
 「信仰の解」、「解」ねぇ……。
 実は昔日、私はこの「下」を途中まで、それと最後の「最終問題」しか読んでいない。真ん中はすっ飛ばしている。
 何故かというと、「罪の原理」の中で、ある聖句の個人訳を掲げ、「日本の聖書の訳はこうであるがそれは違う、由緒正しき出版社のギリシャ語原典にさかのぼってきちんと訳すとどうこうしのごの……」とかなり長く続いたから、「ここに「『こたえ』はありそうもないな」とすっ飛ばし、そしてズルして最後だけ読んだからだ。

 昨日、この「下」をぱらぱら斜め読みしてみたのだが、どうも興味の湧く事柄は書かれていなかった。
 だが、やはりラストは値打ちが高いと思う。

 「さらばわれは何なるか
  夜暗くして泣く赤子
  光ほしさに泣く赤子
  泣くよりほかにことばなし」

 昔日はぴんとこなかった。
 三日前は「ちょっと違うんじゃないか」と感じた。
 昨日、ああほんとうにそうだった、なんだ書いてあったじゃん、「こたえ」が、そう納得できた。

 最後に、昨年12月23日、「余は如何にして基督教徒となりし乎」について書いた中から引用する。

 「なるほど罪の問題を解決した「回心者」は、偉大なことを為しやすいだろう。
 「こころの中の邪魔者」がないから。
 ルター、アウグスティヌス、内村鑑三……。
 しかし、「偉大なことなど」する必要などないといえば、またそうであるはずだ。
 ひとり神のそば近く生きる、やはり「こころの中の邪魔者」なき回心者、彼(彼女)は、無名のまま、実に静かな生活を送り続け、天に召される。」
 おそらくは初代教会以来、両者比して前者よりも後者の方が遙かに多かったに違いないことは、想像に難くない。」

 私は「後者」で満足だ。
(「前者」だって、偉大たらんとして偉大になったわけでもないだろう。)
 「静かな生活」、こころ静かだ。
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