「家を建てる者たち」と「見捨てた石」

 「イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちの見捨てた石。それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである。』
 だから、わたしはあなたがたに言います。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます。」(マタイ21:42-43)

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 「家を建てる者たち」と「見捨てた石」との関連について。

 この当時は、パリサイ人やサドカイ人が「家を建てる者たち」、すなわち祭事を一手に仕切っていた。
 自分たちが神の御心に沿っていると思いこみ、たとえば安息日警察なども買って出る(それこそ何の権限があるのだろうか)。
 そのような彼らから罪人呼ばわりされた取税人や遊女、彼らが「見捨てられた石」だ。
 家を建てる者からすら見捨てられる立場の方が、自身の内面を見つめて罪を見いだし、その罪を悔いる機会が多いことは明らかである。少なくとも、安息日警察のように他人をあげつらってばかりいるよりは、ずっと悔い改めの機会は多い。
 そして神の国は、悔い改めない人よりも悔い改める人のものであり、取税人たちはその神の国の礎の石となるのである。

 これは2000年前のことなのだろうか。
 そうではない。
 「家を建てる者たち」あれば「見捨てられた石」あり、そしてその「見捨てられた石」こそが神の国の実を結びうるのは、今に至るまで変わらない。
 神の国の実を結ぶために大切なことは、悔い改めに至ることだからである。

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