聖書の力

 「パリサイ人たちがみもとにやって来て、イエスを試みて、こう言った。「何か理由があれば、妻を離別することは律法にかなっているでしょうか。」
 イエスは答えて言われた。「創造者は、初めから人を男と女に造って、
 『それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になるのだ。』と言われたのです。それを、あなたがたは読んだことがないのですか。
 それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」
 彼らはイエスに言った。「では、モーセはなぜ、離婚状を渡して妻を離別せよ、と命じたのですか。」
 イエスは彼らに言われた。「モーセは、あなたがたの心がかたくななので、その妻を離別することをあなたがたに許したのです。しかし、初めからそうだったのではありません。」(マタイ19:3-8)

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 聖書が何かを全く解しないパリサイ人について。

 離婚の是非については、ここでは問わない。
 また、この聖書の頃の離婚について、私は知らない。
 いえることは、パリサイ人の言動についてである。
 「では、モーセはなぜ、離婚状を渡して妻を離別せよ、と命じたのですか。」と彼は抜かすのだが、パリサイ人にとって聖書というのは、もっぱら自分の立場に都合のいい箇所(ここでは離婚できる根拠)を求めるための書物になってしまっている。
 前に、酒を飲んでよい根拠を新約聖書から探し出す人々について書いたが、両者の聖書の読み方は全く同じなのである。
(ここで、酒の善し悪しはここでは問わない。)
 このように自分にとって都合よく聖書を拾い読みする限り、聖書が光を放つことはないだろう。

 「イエスはお答えになった。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。」(マタイ22:29新共同訳)

とイエスが言うのと全く同じである。

 聖書は読む者に罪からの救済を与える書物であるから、「求めなさい。そうすれば与えられます。」(マタイ7:7)のとおり、その救済を求めて読み続ければ与えられるに違いない。
 あるとき突然、聖書のことばが光り輝き、そのことばの字面の意味をはるかに越えて飛び込んでくる。
 それが聖書の力であり、読む者を突き刺し、そして回心が起こる。

 だから、聖書に何を求めるのかを明確にしておくことはとても大切なことだ。
 もっぱら我田引水をするための書物なのか、それとも救いを与える書物なのか。

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