神のこと、世のこと

 「そのころ、パリサイ人たちは出て来て、どのようにイエスをことばのわなにかけようかと相談した。
……
 それで、どう思われるのか言ってください。税金をカイザルに納めることは、律法にかなっていることでしょうか。かなっていないことでしょうか。」
 イエスは彼らの悪意を知って言われた。「偽善者たち。なぜ、わたしをためすのか。
 納め金にするお金をわたしに見せなさい。」そこで彼らは、デナリを一枚イエスのもとに持って来た。
 そこで彼らに言われた。「これは、だれの肖像ですか。だれの銘ですか。」
 彼らは、「カイザルのです。」と言った。そこで、イエスは言われた。「それなら、カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」
 彼らは、これを聞いて驚嘆し、イエスを残して立ち去った。」(マタイ22:15,17-22)

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 世の知識には世の知識で対抗するイエス。

 パリサイ人の言っていることは、ここでいう「ことばのわな」というほどのものでもない。
 神の律法とローマ法とは、分けて考えるものだろう。
 というのは、ローマ法がローマの治世のためのものであるのに対し、神の律法は私たちの内にある罪を指弾するためのものだからである。
 つまり、納税とささげものとは性質が全く異なるので、カイザルに税金を納めることと律法とは、何ら矛盾しない。
 まさに「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい」の通りである。
 これは、この世での理屈にすぎない。

 むしろ、物わかりの悪いパリサイ人にこのことをどう明快に示すかということに、イエスの頭の切れ、回転の速さ、想像力などが示されている。たとえば、デナリ通貨を用いたところなど。
 神の子イエスに頭の切れ云々というのは大きな違和感があるのだが、この世ではその類の能力がやはり必要なことを私たちも日々の営みの中で体感している。
 「蛇のようにさとく」(マタイ10:16)も、その意味と同じと思われる。
 神のことは神のこととして臨み、世俗のことは世俗のこととして臨む、イエスの言葉を借りるとこういう言い方になるだろうか。
 ただ、この世では神のことに著しく反することがある。たくさんある。
 そういう局面でこそ、内なる助け主が人知を超えて私たちを誘導してくださる。

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