イエスの杯

 「イエスが彼女に、「どんな願いですか。」と言われると、彼女は言った。「私のこのふたりの息子が、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるようにおことばを下さい。」
 けれども、イエスは答えて言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。」彼らは「できます。」と言った。
 イエスは言われた。「あなたがたはわたしの杯を飲みはします。しかし、わたしの右と左にすわることは、このわたしの許すことではなく、わたしの父によってそれに備えられた人々があるのです。」(マタイ20:21-23)

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 ゼベタイの子ヤコブとヨハネが、イエスの杯を飲むであろうとイエスは言う。

 イエスはこれから十字架という杯を飲もうとしている。
 イエスの道を切り開くためだ。
 そののち、ゼベタイの子たちも、そのイエスの杯を飲むことになる。
 ただそれは、飲みたくて飲むのではなく、気づくと飲まざるを得なくなる類のものである。
 そのイエスの杯を飲み干してはじめて、いわば真のイエスの弟子となる。

 イエスの杯は、イエスと同じように実際に十字架に架かるわけではないが、それに類する大きな苦しみに襲われる。このことについては、アウグスティヌスの「告白」に非常に詳しい。
 これは罪深い肉を処罰しているのであり、救いのためにどうしても通らなくてはならない。
 求め続けてゆくうち、気づくとこのイエスの杯を飲んでいる。
 そうして肉が処罰されたらイエス同様復活し、罪の赦しに安らぎを得る。
 イエスの弟子として、ほかの弟子より偉いのなんのということは、意味をなさない。神-イエス-弟子という関係になるので(参/ヨハネ17:23)、ほかの弟子とは競争関係にならなくなる。

 救われるためには、与えられた苦しみ、イエスの杯を飲み干すを通り抜ける必要があるのである。

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