イエスの人間くささ

 「翌朝、イエスは都に帰る途中、空腹を覚えられた。
 道ばたにいちじくの木が見えたので、近づいて行かれたが、葉のほかは何もないのに気づかれた。それで、イエスはその木に「おまえの実は、もういつまでも、ならないように。」と言われた。すると、たちまちいちじくの木は枯れた。」(マタイ21:18-19)

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 何度でも書くが、イエスは人間の肉をまとった神である。
 だからこそ、イエスが十字架に架かったことに大きな意味がある。神が肉を自ら処罰したのだ。
 それはさておき、肉を持つイエスは腹が減った。

 いちじくの木が見えたので実を食べようと近づくと、そこには葉っぱしかなかった。
 実は落ちてしまったのか、それとも、先客が食べてしまったのか。
 イエスはむっときて、そのいちじくの木をたちまち枯らしてしまう。

 この、いかにも人間くさいところが、イエスが肉をまとっている所以である。
 イエスが一時期の感情に身を委ねていちじくの木を枯らしたというのは、正に私たちと同じ性質ではないか。
 公生涯を送っておられるイエスは、肉を有するという点で私たちと変わることがない。
 それゆえに、その肉を自ら処罰して復活したイエスは弱い私たちのことを理解でき、そして大いに恵んでくださるのである。

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[一版]2010年 7月28日
[二版]2013年12月20日(本日)

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