たとい信じられなくても

 「もしわたしが、わたしの父のみわざを行なっていないのなら、わたしを信じないでいなさい。
 しかし、もし行なっているなら、たといわたしの言うことが信じられなくても、わざを信用しなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしが父にいることを、あなたがたが悟り、また知るためです。」(ヨハネ10:37-38)

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 イエスとは、なんであろう。
 「父がわたしにおられ、わたしが父にいる」、そういう存在だという。
 ところが、イエスがそのことを何度言ってもわからず、信じようがない。どうして信じられよう。
 ならばせめて「わざを信用しなさい」、そうイエスは言う。
 イエスがなにかが今は分からず信じられなくとも、追い求めれば、復活のイエスに出会って「悟り、また知る」ことがあるからである。
 そのときには、信じないとか信じるとかいうより、イエスの言はもはや自明のものとなる。

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