喜怒哀楽の神

 「マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」
 そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、
 言われた。「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧ください。」
 イエスは涙を流された。
 そこで、ユダヤ人たちは言った。「ご覧なさい。主はどんなに彼を愛しておられたことか。」
 しかし、「盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか。」と言う者もいた。
 そこでイエスは、またも心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてあった。」(ヨハネ11:32-38)

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 憤るイエス。
 涙を流すイエス。
 どちらも、私たちに罪の赦しをもたらすイエスの姿である。
 このイエスは、激しく怒ったりもする(宮清め、ヨハネ2:13-22等)。

 つまり、神の子には喜怒哀楽があり、それは神である御父も同様である。
 御父は旧約時代、もっぱら怒れる神であった。
 その神から造られた私たち人間に喜怒哀楽があるのは、むしろ当然のことだろう。

 イエスはあわれみ深い方だからと、自分もあわれみ深くしよう、さらに自分も「いい人」になろうとかやりだすと、どこかで地の自分と整合性が取れなくなって破綻してしまうと思う。
 地の自分は、すなわちアダムの肉を持つ罪人なのだ。
 ここが罪のない神の子イエスと私たちとは決定的に異なる。
 悪い人は悪い人だ。いい人ではない。

 その悪い人に悪いままでいいんだ、とするのがイエスの罪の赦しであり、イエスにすがる理由である。
 私たちの喜怒哀楽はもとより神に赦されているし、すべてのこころの動きが同様、赦されている。
 卑近なことばで書くと、赦されることによって自分の内部での整合性が取れて楽になれる。
 「善行を積まなくては」というのは、無理が大きく傍目に痛々しい。

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