イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
信仰告白
「彼は答えて言った。「これは、驚きました。あなたがたは、あの方がどこから来られたのか、ご存じないと言う。しかし、あの方は私の目をおあけになったのです。
神は、罪人の言うことはお聞きになりません。しかし、だれでも神を敬い、そのみこころを行なうなら、神はその人の言うことを聞いてくださると、私たちは知っています。
盲目に生まれついた者の目をあけた者があるなどとは、昔から聞いたこともありません。
もしあの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできないはずです。」
彼らは答えて言った。「おまえは全く罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか。」そして、彼を外に追い出した。」(ヨハネ9:30-34)
---
「彼」とは、目が見えなかったがイエスによって見えるようになった人。
この「彼」はパリサイ人たち相手に、上のように毅然と言いのけている。
立場としても内容的にも、こういうのが信仰告白である。
人間はアダムの違反以来盲目な存在であり、それゆえ、はからずも彼らパリサイ人が言うように「罪の中に生まれ」た存在である。
(彼らにはその自覚が皆無なところが、救いがたい。)
その罪から人間を救うべく信じる者に「いのち」を与えるために、キリスト・イエスはこの世に来られた。
そのイエスによって目が開かれたとき、上の「彼」同様、イエスが誰であり、またどこから来たのかを一瞬にして了解するようになる。
ではキリストは、人間をどのようにして罪から解放なさるのだろうか。
それは十字架と復活によってである。
人間の罪深い肉と同じ肉を十字架上で処罰し、その処罰がよしとされてよみがえられた(ローマ8:3-11)。
信仰とは、この十字架と復活を信じることである。
これを人知やわざによって信じることは不可能で、上の「彼」のように、ただ恵みによってのみ信じることができるのである。
---
[付記]
本日の記事は、2009年2月24日付記事に筆を入れたものです。
よろしければクリック下さい。
ブログランキングへ
神は、罪人の言うことはお聞きになりません。しかし、だれでも神を敬い、そのみこころを行なうなら、神はその人の言うことを聞いてくださると、私たちは知っています。
盲目に生まれついた者の目をあけた者があるなどとは、昔から聞いたこともありません。
もしあの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできないはずです。」
彼らは答えて言った。「おまえは全く罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか。」そして、彼を外に追い出した。」(ヨハネ9:30-34)
---
「彼」とは、目が見えなかったがイエスによって見えるようになった人。
この「彼」はパリサイ人たち相手に、上のように毅然と言いのけている。
立場としても内容的にも、こういうのが信仰告白である。
人間はアダムの違反以来盲目な存在であり、それゆえ、はからずも彼らパリサイ人が言うように「罪の中に生まれ」た存在である。
(彼らにはその自覚が皆無なところが、救いがたい。)
その罪から人間を救うべく信じる者に「いのち」を与えるために、キリスト・イエスはこの世に来られた。
そのイエスによって目が開かれたとき、上の「彼」同様、イエスが誰であり、またどこから来たのかを一瞬にして了解するようになる。
ではキリストは、人間をどのようにして罪から解放なさるのだろうか。
それは十字架と復活によってである。
人間の罪深い肉と同じ肉を十字架上で処罰し、その処罰がよしとされてよみがえられた(ローマ8:3-11)。
信仰とは、この十字架と復活を信じることである。
これを人知やわざによって信じることは不可能で、上の「彼」のように、ただ恵みによってのみ信じることができるのである。
---
[付記]
本日の記事は、2009年2月24日付記事に筆を入れたものです。
よろしければクリック下さい。
ブログランキングへ
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )