行ないと恵みの違い

 「こうして、夕方になったので、ぶどう園の主人は、監督に言った。『労務者たちを呼んで、最後に来た者たちから順に、最初に来た者たちにまで、賃金を払ってやりなさい。』
 そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつもらった。
 最初の者たちがもらいに来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らもやはりひとり一デナリずつであった。
 そこで、彼らはそれを受け取ると、主人に文句をつけて、
 言った。『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。』
 しかし、彼はそのひとりに答えて言った。『私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。
 自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。
 自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。』
 このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです。」(マタイ20:8-16)

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 ヨハネ伝からいったん離れて、イエスのたとえ話。
 主人は、朝早く、次に9時ごろ、さらに12時頃、午後3時頃に、労務者を雇うために市場に出向く。
 午後5時にも出掛けてみると、まだ人々が立っていたので彼らをも雇う。
 さて一日を終え給料を払う段になると、「最後に来た者たちから順に、最初に来た者たちにまで、賃金を払」うようにする。

 ところで律法による救いとは、行ないによって救われようとするものであり、上のたとえ話でいけば、より長時間額に汗した者が救われることになる。
 しかし救いとは、そのような行ないではなく恵みである。
 具体的には、朝早くであれ、夕方5時であれ、雇われること自体が恵みによる救いである。
 本人がしたことといったら、市場に立って職探しをしていたことくらいだ。

 救いはアナログではなくデジタルなので、いつ救われたかにかかわらず誰でも1デナリだ。救われなかった者は、0デナリ。
 つまり、「救われた」と「救われなかった」の2つの状態しかないので、救いはデジタルな世界と言え、たとえば「半分救われた」、「8割方救われたからあと2割頑張ろう」というようなアナログな連続量的状態は、こと救いについてはありえない。
 行ないというのは、救いがアナログ量だという前提に基づいているように思える。
 言い換えると、朝早くから働いたので3デナリ位はもらえるだろうという誤解は、行ないの世界に由来しているような気がする。

 「このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです」、恵みによる救いには、あとさきは関係がない。
 行ないのことが頭にあるので、先の方がよりいいだろうと思ってしまう。
 だが、救いに恵まれてしまえば、先も後も一緒だ。
 救われるためにやることはただ一つ、市場に立って恵みを待つことである。

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