罪について(2)

(1)
 「罪とは神を離れることであり、義とは神に帰ることがわかって、救いとは何であるのかが分かる。救いとは単に罪を去って義しい(ただしい)人となることではない。こういうことはまた、実際に人のなしうるところではない。救いとは神の側より見て背いた神に背いて神に帰ることである。そして神と人との仲保者であるキリストの立場よりみれば、二者の調和を計ることである。……」
(「一日一生」新版(内村鑑三)、1月14日の項より本文)

(2)
 「しかし今、キリストはさらにすぐれた務めを得られました。それは彼が、さらにすぐれた約束に基づいて制定された、さらにすぐれた契約の仲介者であるからです。」(ヘブル8:6)

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 「罪について」という同じタイトルで、今年の9月22日に書いていた。
こちら。このときも不思議なことに、内村鑑三から材を取っている。)
 このときに記したことの焦点は、こうである。「本当に「罪」に気付こうものなら、内村鑑三が「求安録」でしたためたように七転八倒の苦しみにのたうち回る、今の私はそう思う。「おもしろい」わけが、ないじゃないか。苦しみにのたうち回ってのたうち回って、最後に贖罪の十字架輝き、新生叶う……。」

 今日の引用箇所には、こうある。
 「罪とは神を離れること」。
 神から離れることは、なるほどひどく苦しい。

 ところでさくじつも、私は罪を取り上げた。
 その中で、この語句を頻用している。
 「罪という状態 ( "states" ) 」。
 しばしば、「これは罪です」と、行為を指して指摘される(一番分かりやすく馬鹿らしいのが、仏像を見ることを罪と指摘するご指導)。
 私は罪とは「状態 (states) 」ではないかと、かねがねから考えていた。
(実はさくじつも書いて、文章の収まりがつかなくなって消してしまった。

 罪という状態、すなわち、「神から離れたという」状態。

 「救いとは神の側より見て背いた神に背いて神に帰ることである。そして神と人との仲保者であるキリストの立場よりみれば、二者の調和を計ることである。」、それからヘブル8:6、「それは彼が、さらにすぐれた約束に基づいて制定された、さらにすぐれた契約の仲介者であるからです」。
 罪からの救いとは、神と人との仲直りの意。
 その仲直りは、イエスの仲人によって。

 さて、ほんじつ「一日一生」に題を取ることは決まっていたのだが、いろいろあって、全くはかどらなかった。
 夕食時になり、すると些末なことから夫婦喧嘩になってしまった。
 「七転八倒」というほどではないが、非常に後味が悪い。
 策を弄さず(弄することもできないが)、仲人イエスに祈りを捧げる。

 上記の引用において、若干の読点、漢字の補正を施したことを付記する。
 また、「1月14日」で本来引用されているのは、別の聖句である。
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