主の書物

 「主の書物を調べて読め。
  これらのもののうちどれも失われていない。」(イザヤ34:16)

---

 初めて教会というところに行ったのは、1999年の10月第3日曜だ。
 くそまじめな私は、以来、聖書をどれだけ開き続けたことか。
 説教の「復習」までしたほどの、徹底したくそまじめさだ(実話)。

 ところが2005年半ば、聖書が「読めなく」なってしまった。
 開いて読もうとしても、「文字群」がさっぱり頭に入ってこない、そんな日々が続いた。
(ちなみに、新聞や仕事の文書はすらすら読めた。)

 さて2006年半ばの私は、「ある方」との問答を頭の中に思い描いていた。
 「……、何を読んだらいいですかね……。」
 「アホか、聖書だろ。」
 我ながらほんとうにアホに思え、それでようやく聖書に手を伸ばした
 たまたま開いた箇所、それはヨハネ黙示録。
(このことは、こちらに少し書いた。)

 以来、謂わば「聖書を取り戻した」。
 たしかに、「どれも失われていない」。
 1年間読めなかったことの理由よりも、今年9月以降このブログを細々と続けること叶い、そうして上に挙げたようにイザヤ書の聖句におおきな慰めを受けたことの大きな恵みに目を向けたい。

 9月以降は、聖書の方から語ってくれるようにさえ思う。
 「主の書物」を取り戻す?ためには、「書を捨て去る1年間」が必要だったのかも知れない。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )