ヨハネが伝えるイエスのエルサレム入城

 「その翌日、祭りに来ていた大ぜいの人の群れは、イエスがエルサレムに来ようとしておられると聞いて、しゅろの木の枝を取って、出迎えのために出て行った。そして大声で叫んだ。「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」
 イエスは、ろばの子を見つけて、それに乗られた。それは次のように書かれているとおりであった。
  「恐れるな。シオンの娘。見よ。あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。」
 初め、弟子たちにはこれらのことがわからなかった。しかし、イエスが栄光を受けられてから、これらのことがイエスについて書かれたことであって、人々がそのとおりにイエスに対して行なったことを、彼らは思い出した。」(ヨハネ伝12:12-16)

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 イエスのエルサレム入城記事は、4つの福音書とも伝えている。
 しかし上のヨハネ伝の伝え方は、他の3つの伝え方とは大分異なる。
 16節「初め、弟子たちにはこれらのことがわからなかった。しかし、イエスが栄光を受けられてから、これらのことがイエスについて書かれたことであって、人々がそのとおりにイエスに対して行なった……」。
 ここが他の福音書にはない、際だった特徴だ。
 この「特徴」と真っ向から対立する箇所が、ルカ19:40「わたしは、あなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます」。

 さてもう一つ、4福音書とも取り上げているのだが、ヨハネ伝の角度が際だって異なる聖書箇所がある。五千人の給食、その後の記事だ。

  「人々は、イエスのなさったしるしを見て、「まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ。」と言った。
 そこで、イエスは、人々が自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知って、ただひとり、また山に退かれた。」(ヨハネ伝6:14-15)

 「人々」という存在は「パン」というマテリアルで満足しきって、その「マテリアルとしてのパン」を与えてくれたイエスを担ぎ上げようとする(しかも「パンをくれる預言者、王」として)。
 イエスはたまらず山に逃げてしまう(イエスは「いのち」を与えに来た)。

 ここで話を元に戻そう。
 エルサレム入城のとき、イエスはどうして「この人々の」歓待を受けるだろう?
 訳も分からず「ホサナ!」と叫ぶ「人々」、その歓待を。

 後日での弟子の気付き。
 それは「預言の成就」のため、また、「そうならなくてはならないことをやるため」……。
(特に後者については、何といっても十字架への歩みが当てはまる)。
 「人々」と共にエルサレムに入城するというのは、ヨハネ伝ではそういう義務感の類からのものだったのではあるまいか。

 このようなイエスの後ろ姿を見ていると、次のような気持ちがわき出てくる。
 「やるときには嫌でもやらなくてはならない事というのがある」。
 「心の内がどうであろうと、やることをあくまで淡々とやる」。

 ところでヨハネ伝では、イエスは結構「逃げ」を見せている。
(例えばヨハネ11:53-54。)
 逃げてもいいときというのは、確かにある。あるいは「隠れる」とか。
 ただ、逃げられない場面というのが、ある(例えばマタイ26:54)。
 そのときは、やる、淡々と。

 あるいは「エルサレム入城」ということ自体が、そういう類の決意を要するのかも知れない、そうとも思う。
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