死んで、生きる

「 深 き 底 よ り

 今や近づく、うみの大波とむざんな死が。
 まことにおまえは地獄の門の前に来た。
 古き人は断末魔の苦しみにあり、
 生まれたばかりの新しき人はなお苦しげに吐息する。
 ……」
(「眠られぬ夜のために・1」(ヒルティ著、草間、大和訳、岩波文庫)、4月1日の箇所に掲載された詩から)

 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。(ローマ6:4)

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 ヒルティの本を、再度読み進めてみた。
 3年前に読了した時に感じた「色彩」とは、随分と違う「色彩」を感じる。
 大方の記述が、もはや自明 ( trivial ) に思え、随分と頷いた。
 上記引用詩、分けても「生まれたばかりの新しき人はなお苦しげに吐息する」のくだりに差し掛かったときには、万感の思いすらこみ上げてきた。

 そう、万感の思い。
 なぜといって、第一に、「今の私」は「苦しげに吐息」してむしろ当たり前のように思え、かえって大いに安んじることができたから。
 第二に、ヒルティがいわゆる「恩寵の選び」(ヒルティの著作に頻出する)にあずかったことについて、その確信をずっと深めることができたから。

 「古き人は断末魔の苦しみにあり」。
 3ヶ月半前は、ほんとうに苦しかったものだ。
 しかし、死んで、生きる。
 どこまでも徹底的に死ぬと、不思議なもので、生きる。
 上に引用したローマ6:4は、このような意味ではなかろうか。
 ただ、「死んで、生きて」も、「人間の根っこ」が丸ごと変わるものでもないと思う。
 ルターを評して「あまりに傲慢」、これは高校世界史の教科書にある記述だ。
 ではこの「傲慢さ」をどう生かすか、ここが焦点となろう。

 話を戻して、「生まれたばかりの新しき人はなお苦しげに吐息する」。
 この「苦しみの息」が続く時期を、「総決算期間」とでも呼んでみよう。
 換言すると、「死んだ自分のお葬式」、これを長々とやっている、また、「死んだ自分のケツを拭い続ける時期」とも言えると思う。
 「『総決算』、それは11月はじめの3連休」、勝手にそう計画を立てていたら、神はそんな勝手な計画なぞ赦してはくれなかったようで、どんなに早くとも年末いっぱいまでは掛かる案配だ。
 するとまだしばらくは息苦しい日々は続き、しかしながら上に書いたように goal はおぼろげに見えているので、それで堪えることができる。

 ちなみに上の「恩寵の選び」については、アウグスティヌスの「告白」以上にまさった著作はなかろうと思う。ヒルティも、ストレートに書くことは全くできなかった。
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