時代

 「この時代は何にたとえたらよいでしょう。市場にすわっている子どもたちのようです。彼らは、ほかの子どもたちに呼びかけて、こう言うのです。『笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、悲しまなかった。』
 ヨハネが来て、食べも飲みもしないと、人々は『あれは悪霊につかれているのだ。』と言い、人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ。』と言います。でも、知恵の正しいことは、その行ないが証明します。」
 それから、イエスは、数々の力あるわざの行なわれた町々が悔い改めなかったので、責め始められた。」(マタイ11:16-20)

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 19節での「食いしんぼうの大酒飲み」の記載だけを根拠に、「自身の酒飲み」に根拠付けを与える人が実に多い。「イエスも大酒飲みだった」、と。
 それなら「食いしん坊」の方も「学んで」、それこそ食い倒れてしまえばよい。

 飲み食いについては、バステスマのヨハネとの対比で話を切り出してこそ、初めて意味を有する。
 ヨハネが属するエッセネ派、その禁欲ぶりとの話の上でのコントラスト、それ以上のものではないのではないか。
 そして何より、上の引用箇所は、どれも「(今の)時代への責め」ということで共通している。

 イエスが言っても誰も振り向かないという、子どもたちに材を取った例え話。
 外見上常人と違うというだけでイエス達に陰口を叩く、知恵なきパリサイ人・律法学者。
(だから、酒の話などでは全くない)。
 そして、イエスが悪霊の追い出しや癒しをなされた町々が、イエスのそのわざを見ても何か思うこともなく「悔い改めなかった」話、これが引用箇所以降もしばらく続く。

 「こうしてイザヤの告げた預言が彼らの上に実現したのです。『あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。」(マタイ13:14)。

 このような「時代」であったから、イエス御自身を実際に間近に見ようとも、その「時代」が悔い改めることはなかった。上記の聖書箇所はいずれも、そのような時代への言及である。

 ましてや「今の時代」はどうであろうか。
 酒飲みたさの口実にまで聖書を持ってくるのであれば、彼にとって聖書は酒を飲む口実を与える以上のものではない。そして、そんな口実はテレビに幾らでも転がっている。
 私は個人的には、「飲みたいんなら素直に飲めばいいじゃないか」くらいにしか思っていないことを付言する。どうでもいい問題だ。
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