罪について

上の部
 悲嘆
 内心の分離 (英語は略す)
 脱罪術 その一 リバイバル
 脱罪術 その二 学問
 脱罪術 その三 自然の研究
 脱罪術 その四 慈善事業
 脱罪術 その五 神学研究
 神学校
 忘罪術 その一 ホーム
 忘罪術 その二 利欲主義 (英語は略す)
 忘罪術 その三 オプティミズム(楽天教) (小見出しを略す)
下の部
 罪の原理
 喜びの訪れ
 信仰の解
 楽園の回復 (英語は略す)
 贖罪の哲理
 最終問題
(内村鑑三「求安録」の「見出し」、教文社全集1所収版より)

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 今の私には、「罪」、この重大項目を理路整然としたためることの到底叶わぬ者である。
 試みに書いてみると、「大罪が自身の身に横たわっている」、まずは、この厳粛たる事実に気付くかどうか(そのためにこそ、聖書がある)。
 次に気付いたとして、「自分自身の大罪」、こいつは、消そうとしても消えず、小さくしようとしてもそれすら叶わない、こうして、もがき苦しむ。
 そして「きらめくばかりのある一点」。
 そうして、「自分自身の大罪自体」は受け入れつつ、「その大罪」と付き合う…。
 つまり「大罪それ自体がなくなりはしないことを受け入れる」。
 これが、今の私が考えている「罪の解決」である。
 まあ、仮説にすぎない。
 「もがき苦しみ」、その最果ての地点で、イエスは「その人の身代わりになって」十字架で死んでくださった。「きらめくばかりのある一点」とは、ここを言う。
 この「贖罪の十字架」にしても、今の私の幼稚な理解にすぎない。
 そうして、「もがき苦しんでいた自己」は、死ぬ。
 イエスが十字架の上で死んだように。
 そして、イエスは復活するのだ!
 そういうわけで、その人は新生(「回心」)を果たす。
 かくして「大罪との共存」叶う、そういう考えだ。

 「私の中には、ぶっとくて黒い蛇が棲み着いている」。
 確か三浦綾子の言だと記憶していた(ことばそのものは、うろ覚え)。
 「蛇」に気付き、「蛇」と格闘し、そして遂に「蛇と共存する」。これこそ、イエスによる罪の解決だ、そう思う。

 もっぱらそのことを書き記そう、そう思って、本棚にある限りの彼女の著作を片っ端から斜め読みする。
 「蛇」の話は、どこにもなかった。
(ネットで調べても、どうも出てこない。)
 ところで私は三浦綾子の文章というのは、「高校文学少女」程度、それくらいにしか評価していない。
 「三浦綾子は『文壇』では全く評価されていない」という話を、昔日教会で耳にしたことがある。
 少し前に「道ありき」を読み、またさくじつ随分と斜め読みして、まあ、「文壇」の「ぶ」にも及ばない、申し訳ないがそういう印象以上のものはない。
 三浦綾子のファン層。
 第一、「右手にメロドラマ、左手に聖書」という一群(専業主婦に多いか?)。
 第二、「教会(註:イエスではない)を仲介者とする理想のめおと像」、この虚像にあこがれプロテスタント教会推薦図書群の一を読む、そういう一群。
 この両者以外にはなんらの存在価値もない文章群、今の私は三浦綾子をそのように位置づけている。
 例えば「道ありき」は、「いい材料」をたくさん持ってきているのに、何の重み付けもせずに「箇条書き」するばかりで、勿体ないなとすら思った。これでは「本」ではなくて「文章」にすぎない。
 一方で、遠藤周作の「沈黙」。
 10ページほど読み進めていって、その筆力の強さに叩きのめされた。
(ただ、遠藤周作が描く「イエス像」を、私は全否定している。そして、そのことと「作家としての腕の善し悪し」とは、全く別個の事項である。)

 三浦綾子の文章をざっと斜め読みして思ったこと。
 「この人は『教会が教えるとおりの『罪』を言い広めただけで、実は『罪』に気付いていなかったのかもしれない……』。
 「信仰三部作」と「教会」でもてはやされるその一冊、「光あるうちに」(新潮文庫)は、特にひどいと思った。

 「罪とは何か」の項 ( P.24-75 )。
 「『原罪とは何ですか』という便りが殺到し、……。私は『人間が生まれながらにして持っている罪のことです』などと答えたりしたが、……」( P.24 )。
 逆に私は彼女に問いたい。「人間が生まれながらにして持っている罪」とは何ですか、と。
 これでは禅問答ではないか。私が彼女の文章を「教会の受け売り」と書く所以である。

 続けて彼女は書いている。
 「『性欲も、食欲も原罪だそうです』と座談会で語っておられ、わたしはこまったなあと思った……」。(同頁)。
 そりゃあ、言われるべくして言われ、当然の帰結として「こまる」だろうに、位にしか思わない。
 彼女の「教会の受け売り」の程は、本書の P.38 、「○原罪」という項の記載が雄弁だ。引用はしないが、それこそ「教会の卸問屋」以外の何者でもないと思った。

 もう少し続けることの愚を、お許し願いたい。
 P.161 の記載。
 「この『光あるうちに』も、『主婦の友』誌に連載されて……。あと二章で一応終わらせていただくわけだが、『大変わかりやすくておもしろい』『感動しています』という読者の方の手紙に、私は励まされてきた。」

 「主婦の友」という雑誌に「罪」をしたためて、「わかりやすくておもしろい」、「感動した」じゃあなあ……、私は寧ろ「がっくりした」という印象すら覚えた。
 三浦綾子は「聖書をメロドラマに貶めただけではないのか……」、そんな気さえしてきた。

 もう一冊、彼女の「本」を取り上げよう。
 「愛の奇才 西村久蔵の歩んだ道」(新潮文庫)。
 この本には、ひとつだけ「資料的価値」を僕は見いだしている。
 それは、敗戦直後、日本がどれほど混乱していたか、そのことを微かに見ることができる、ということだ(あくまで「微かに」程度だが)。
 西村久蔵さんは、確かに素晴らしい方だったこと、受け合いである。
 だが、この「本」で「描かれた」彼は、単なるヒューマノイドだ。
 人間を革命すると、こうなるのか……、そうとも思う(これはさすがに言い過ぎか)。
 「蛇」について書いたのは、違う人だったかな……?

 こう書いてゆくと三浦綾子批判のように見えるが、実はそうではないことを、ここに記しておく。
 今日の記事、それはあくまでも「罪」についてである。
 「『罪』が本当に分からなかった」人が書いてしまったが故に、「わかりやすくておもしろい」なんていう「とんちんかんな感想」を読者から頂いてしまう…。
 本当に「罪」に気付こうものなら、内村鑑三が「求安録」でしたためたように七転八倒の苦しみにのたうち回る、今の私はそう思う。
 「おもしろい」わけが、ないじゃないか。
 苦しみにのたうち回ってのたうち回って、最後に贖罪の十字架輝き、新生叶う……。
 今の私がぼんやり思っていることを最も端的に記すと、このような記し方になる。

 冒頭に挙げた「求安録」、その「見出し」。
 特に「上の部」、ここにこそ、その「のたうち回り」を見る。
 「下の部」は基本的に、個人的には興味がない。
 ただ一点を除いては。
 「ただ一点」、それは「最終問題」の項であり、この箇所はこころから同意する。
 わけても、次に掲げる最後の一節。

 「さらばわれは何なるか
  夜暗くして泣く赤子
  光ほしさに泣く赤子
  泣くよりほかにことばなし」

 内村鑑三は、自分の無力さ加減を嫌と言うほど認めた、そのことを上のように綴ったのだなと、今の私は解釈している。
 「その無力さ」をとことん認めた上で、さてどうしましょうかと、「ナザレのイエス」の手を借りて、自身の二本足で立ち上がる。
 そう、正に「認める」、ここが辛くて辛くてかなわないから、「上の部」に種々並べ立てられたように、様々な「脱罪術」や「忘罪術」を試みてはやはりこの方法もダメだ……そのように「そびえ立つ罪」からの逃避を試み続け、試み続ける。
 そうやっていって、しかしかえって「罪の壁」は高みを増すばかりだ。
 とうとう「忘罪術 その三 オプティミズム(楽天教)」にまで行ってしまうのも、頷くことができる。
 そしてある時! 贖罪の十字架が光り輝き、例えば次の聖句のようになる。

 「金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」弟子たちは、これを聞くと、たいへん驚いて言った。「それでは、だれが救われることができるのでしょう。」イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」(マタイ19:24-26)

 「針の穴」を「らくだ」が通ること叶うのは、ただ神の故あってのことと思う。

 今の私には「贖罪の十字架」については、語る資格自体全くない者であることを深く自覚している、そのことを付記しておく。
 ただ、「ナザレのイエス」だけが唯一の処方箋だ、このことは確かだとも記しておこう。
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