孤独について

「だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。(ヨハネ伝16:32新共同訳)

 人類のために尽くそうとして世に交際を求める必要は、一つもない。私たちは単に独りであっても人類のために尽くすことができる。人はなんぴとも人類の一部分である。
 そのため己に尽くして人類のために尽くすことができる、独り真理を発見することができる、独り神と接することができる、独り霊性を磨いて完全の域に向かって進むことができる。
 私たちは人類のよい標本として、己を世に提供することができる。単独は決して無為の境遇ではない。」
(「一日一生」新版(内村鑑三)、2月11日の項より本文)

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 「孤独であるためのレッスン 」という本がある。
 2001年10月発行、とのこと。
 いつものように?Amazon を開いた私は、新刊本としてトップページに広告されたこの本に飛びついてワンクリックしたものだ。
 すると「あのワンクリック」は、5年以上前の話になる。
 この本の要旨は、大方こんなあたりだったように覚えている。
 「孤独の中にいる方が、真に自分のやりたいことをできるもんだ。」

 さて、ほんじつ抜き出した箇所で、鑑三は「人類」という大所から論じる。
 「人類」というと、あまりに高き高所のように思える。
 だが、やはり鑑三の書である「後世への最大遺物」、「後世」とはやはり大所に見えるのだが、この本の焦点は、日々淡々ときちんと背筋正して歩んでゆく、その歩みがだんだんにつながってゆくんだ、という、「全く日常的な」次元だ。
 そして話を上の「一日一生」に戻すと、「人類」というのは、やはり同様に「全く日常的な」次元のように思える。
 たとえば夫婦円満。ひとりの配偶者との生活が円満であり続けるというのは、大いなる「人類」への貢献だろう。
 仕事で書類の山を片付ける、これにしても、仕事が早く終わるのならば、大いなる「人類」への貢献となる。
 このように「自然と課せられたこと」をやるとき、世の交際というのは不要物、さらには邪魔者になってくる。

 そして鑑三は書く。「人類のよい標本として、己を世に提供することができる」、と。
 上に挙げた「後世への…」と全く同じ考えを当てはまるならば、「日々淡々ときちんと背筋正して歩んでゆく、その歩みがだんだんに重宝される」、このように私には読める。

 孤独を打ち忘れて「与えられたこと」に没頭すること。
 ひたすら、「世の交際」は邪魔になる。

 一番最初に引用した本「孤独であるためのレッスン」は、随分前に、全くの不要物となってしまった。
(何故かは分からない。)

 最後に、神との交わり、これも「全く孤独な」営みだ。
 正確に言うと、違う。
 「神とのただ二者のみによる営み(交わり)」。
 他人は、いない。ひとりも、いない。
 まさにイエスが次のように仰ったように。
 「わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。」

 上記の引用において、若干の読点、漢字の補正また改行を施したことを付記する
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