リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

産業社会学に向き合うとすれば(その2)

2021-06-05 11:03:11 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。今どきは掛布団に困ります、寝るときは暑くて明け方は寒くて。どっちを選んでも、起きると体調が悪い。
 外では梅の実が大きくなってきました。熟して赤みがさしたのがきれいですね。
 子供の頃は梅酒が楽しみで。夏の暑い日にぴったり。長じてブランデーベースというのもいただきましたが、あんまり違いが判りませんでした。大人は飲むタイミングがないので、作らずにチョーヤ梅酒でしょうか、風情がないのが残念。
 
 世間話。一昨日、800円ほどのキッチン部品をネットで買ったのが、はるばる中国から3週間かかって届いたのですが、よく見たら荷札がキリル文字。あのロシアの文字です。
 おや? と思いながらアルファベット文字を思い出してると、どうも「キルギスタン」と読める。え? made in chinaと書いてあるじゃんと思いながらもwikipediaを見ると、やっぱりキルギスで、首都ビシュケクからだってさ。ほんと世界はグローバル。
 
 さて、今日もつまんない話でふつうの方に逃げられちゃうので、なんとかお役立ち情報、もっとも東京地方限定。
 コロナで閉まっていた神代植物公園(調布)、昭和記念公園(西立川)が昨日今日、開園しました。神代は予約制ですが、さっきみたら、明日以降は空いてそうです。お昼は深大寺そばなどどうぞ。
 といっても神代の花はちょうど端境期のようで、その点は昭和公園のほうがよさげです。
 ただこちらはロクな食べ物がない。明日は雨模様でお弁当も食べづらそう。東京地方来週はそこそこの天気ですので、平日休みの方はお弁当手持ちでどうぞ。
 
 というわけで、本日の本題は、前々回の続き、で自称(その2)。
 悪口をいっといて「なにいってんだこいつ」と思われるのもよくない。ちなみに前々回礼儀で書かなかった書名は、「産業社会学」東大出版会、1973。

 およそ人々のための実証的産業社会学とは、その他の領域社会学と同じく、その対象の実情をしらせるべきものです。農民にはサラリーマンの実態を、サラリーマンには農漁村その他の自営業者の実態を。
 もちろんそれぞれの専門生活者は学者以上にそれを知っているのですが、しかしその事実を他部門専属者に伝えるためには、現実的にはやはりそれ専門の従事者が要るといえます。
 また、実証の他に、もちろん社会学は科学ですから、法則の定立、つまり行為者に対して彼の将来を定立させるべき事実認知の提供をしなければなりません。すなわち、その状況が何によってもたらされているか、その現実への規定性の析出と、次いでその現実を行為者のより良き将来のために変える方途の提出です。
 産業社会学であれば、企業内行為者の現状の規定性と、次いで、どうすればその自己の現状という現実を改善できるかという方途です。
 具体的には、諸経済要因の企業行動及び企業内行動への影響の仕方と、その影響の仕方を規定する諸要因の析出。そしてある場合には、もともとの経済要因への反作用の仕方。です。
たとえば、資本主義の腐朽的貿易環境、諸保護政策(の無さ)、技術革新等の影響をめぐるそれです。ここにはその視座の設定時点以降は、価値判断の入る余地はなく、その法則的定立は、ある時点にとどまらず、次の未来時点での法則措定にも役立つ科学なのです。
 
 社会学とはこのように、物質的諸条件を人間行為につなげるための科学なのです。
 囲い込まれた行為者を取り巻く「社会」についておしゃべりする学問であるはずはない。なぜなら、何度も言いますが、「そんなことなら中にいる人間のほうがよく知っている」からです。現状、社会学者が生計を立てられるのは、その「常識」を外部へ情報しているその作業への報酬であるに過ぎません。

 というだけではよくわからないでしょう。対照的な議論を挙げておきましょう。
 社会学とはシステムと行為との仲介に必須な学なのであって、これなしには科学は成立しません。
 ところが世の自称経済学・思想書・歴史学的大著なるものは、諸経済要因を、生活者人間に身近な概念に直結させ、それで論が通ると思っている。しかし、これらはすべてが「評論」です。 
 それらの論の根拠はどこにもない。だれでも認める客観的事象についで、「社会の場面」と「人間の行為の場面」に自分の好き勝手な概念を持ち運んで、自分の言いたい価値評論を縷々(るる)開陳しているだけなのです。世間の(経済)論議の98%はこれであり、残りの2%が「産業社会学」なるものです。お間違えなきよう。社会学の最後の結論は、必ず行為の原理・原則にのっとった人間の行為を物質的条件につなげた形で終わらなければならないのです。
 
 さらに悪いことには、或る議論は、それが公表される限り、その中には人の役立つことが書かれなければ存在意義がありません。ここで、囲い込まれた行為者を取り巻く「社会」について書くことは、ただの現状のお知らせであるはずのものが、当該対象組織等にかかわる人間にとっての諸評価、あるいはその評価を基とした関係者・評価するであろう第三者への「提言」となってしまう。もちろんその提言の未来の存在に備えて、論旨もその提言等を支持する様相を呈します。
 経営組織、そこでの人間関係、リーダーシップ、そこでの人間の意識、疎外的状況、労働組合、労使関係。よせばいいのに、そのすべてに提言等がついて回る。かくてそんな議論は当該組織の変遷とともに50年後には無意味になるのです。
 それはすでに社会学ではありません。経営学です。ある組織の構成員の志向をまとめあげて、その組織の目的に沿う形で、各々の最大値を求める学、経営学です。
 経営学が悪いというのではありません。ただそれが経営学だ、といっているのです。
 もっともついでに賃金労働をしたことのない人には念のため伝えておきますが、組織内労働者は、そんな目的で微分した満足など求めてはいません。少なくとも元サラリーマン隈はそうです。元サラリーマン隈は、どうすれば自分の満足を社会で実現すればよいのか、それを学問的に求めているのです。
 経営学? おととい来い。
 
 (もっとも問題とした書にあっては、産業社会の現状への「技術革新」の影響、あるいは傾向性の有効さへの議論が淡々と語られている論文もあります。論末提言もない。ないのは論者の自信というものでしょう。実際、そうでなければなりません。
 て、その論者が間宏先生では、隈の言は正直に受け取られないでしょうね。)
 
コメント
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