何気なく手にした本が安岡正篤先生の「孟子」。
パラパラとめくったところで目に飛び込んできたのが、次の一節。
「父子の間は善を責めず。善を責むればすなわち離る。離るればすなわち不祥これより大なるはなし」
父というものは、子供に対してあまり道義的な要求を口やかましくするものではない。そうすると子供が父から離れていってしまう。父と子が離れて疎くなるほど祥(よ)くないことはないのだ、という意味だそうです。
父親が親子という力関係を頼りにして、よかれと思って指導をしたところで、子供の方だって「お父さん、そうは言うけれど、あなただって全て正しいことをしていないではないか」と思うもの。
父親が真面目で熱心であればあるほど、子供の心とのギャップが深くなってしまうようです。
そしてそれ故に「親の心子知らず」とばかりに腹が立つ。腹が立つから叱る。叱られるくらいなら子も父に近づかない。
この関係性の悪循環を既に2千年前の先哲が見ぬいているということに驚きを禁じ得ません。
古典ってやっぱり時間のフィルターに濾過されてなお残っているだけに、心にぐっと染みいってくることがありますね。
* * * *
「平和の絵本で愛と癒しと」(こちら → http://j15.org/ )という考えさせられるサイトがありました。
この中に「子供を犯罪者に育てる方法」という、ちょっとどきっとするデジタル絵本があります。
全編を通じて、私として特に論評はいたしません。「そのとおり」と思うところもありますし、逆に「そうかな?」と思うところもあります。
* * * *
前半の孟子のお話にはその前段があります。あの文章の前に実は「古(いにしえ)は子を易(代)えてこれを教う」と書かれてあるのです。
昔の親は子供を自ら教えるのではなく、他人の子供と取り換えて教え諭したものだ、というのです。良好な関係性をどう崩さないようにするか、という先賢の知恵がそこにはありますね。
ぐっと染みいって、ちょっとどきっとするお話。
どう思いますか?
パラパラとめくったところで目に飛び込んできたのが、次の一節。
「父子の間は善を責めず。善を責むればすなわち離る。離るればすなわち不祥これより大なるはなし」
父というものは、子供に対してあまり道義的な要求を口やかましくするものではない。そうすると子供が父から離れていってしまう。父と子が離れて疎くなるほど祥(よ)くないことはないのだ、という意味だそうです。
父親が親子という力関係を頼りにして、よかれと思って指導をしたところで、子供の方だって「お父さん、そうは言うけれど、あなただって全て正しいことをしていないではないか」と思うもの。
父親が真面目で熱心であればあるほど、子供の心とのギャップが深くなってしまうようです。
そしてそれ故に「親の心子知らず」とばかりに腹が立つ。腹が立つから叱る。叱られるくらいなら子も父に近づかない。
この関係性の悪循環を既に2千年前の先哲が見ぬいているということに驚きを禁じ得ません。
古典ってやっぱり時間のフィルターに濾過されてなお残っているだけに、心にぐっと染みいってくることがありますね。
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「平和の絵本で愛と癒しと」(こちら → http://j15.org/ )という考えさせられるサイトがありました。
この中に「子供を犯罪者に育てる方法」という、ちょっとどきっとするデジタル絵本があります。
全編を通じて、私として特に論評はいたしません。「そのとおり」と思うところもありますし、逆に「そうかな?」と思うところもあります。
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前半の孟子のお話にはその前段があります。あの文章の前に実は「古(いにしえ)は子を易(代)えてこれを教う」と書かれてあるのです。
昔の親は子供を自ら教えるのではなく、他人の子供と取り換えて教え諭したものだ、というのです。良好な関係性をどう崩さないようにするか、という先賢の知恵がそこにはありますね。
ぐっと染みいって、ちょっとどきっとするお話。
どう思いますか?