「もし宮本君の足跡を日本の白地図に赤インクで印したら、全体真っ赤になるほどだろう」(渋沢敬三・民俗学者)
「宮本常一は、ふつう民俗学者として紹介されている。しかし、宮本が日本列島の上に印したおびただしい業績を展望すれば、そんな狭苦しいくくりだけでは到底おさまりきれない男だったということがすぐにわかる」(佐野眞一・ノンフィクション作家)
今日ご紹介するのは佐野眞一責任編集、河出書房新社「道の手帳 宮本常一~旅する民俗学者~」(1500円)です。
今日のこの本は、今また静かに読まれるようになっている宮本常一氏の人となりを、周辺の人物によるエッセイ、彼自身の未収録のエッセイ、昔の雑誌の中で彼に触れた原稿などを集めて紹介するものです。
※ ※ ※ ※
宮本常一氏は明治40(1907)年山口県周防大島に生まれました。
小学校を経てしばらくは大阪の郵便局で働き、やがて天王寺師範学校を卒業し、小学校教員となりました。
教員としても優秀で名が通ったのですが、その頃から民俗学、文学、歴史に詳しかったといいます。
昭和十四年、三十歳になった宮本は、満州の建国大学創立にあたって大陸に渡りたい、と渋沢敬三氏に相談したが、「身体も丈夫でない君が今から二つの外国語を習得するのは容易ではない。それよりも、君は瀬戸内海に生まれ、瀬戸内海が詳しいのだから、それを一生のテーマとして取り組んではどうか」と諭され、と同時に、「瀬戸内海を知るには日本全国を歩いてみなくてはならないだろう。旅はいくらしても良いから私のところに来てはどうか」と言われ、それから22年間もの間、渋沢家の食客となったのだそうです。
食客を招くという風がまだ生きていた古き良き時代の話ですね。
それから先の彼は、とにかく日本中を歩いて、土地の古老から上手に話を引き出し、ひたすらそれを原稿にするという毎日だったといいます。
そうして、まだ明治の人がかろうじて生き残っていた戦中戦後を通じて、それまでにはなかった底辺の人達の生き様から日本という国の民族の有りさまを探し求め続けたと言えるでしょう。
※ ※ ※ ※
民俗学の先駆的な立場に、その当時から柳田國男がいました。
柳田國男は東京帝国大学を卒業して農商務省に入り、最後には法制局参事官、宮内省書記官を勤めあげ、官僚としては檜舞台を歩いた人でした。
田舎を旅するときに柳田の姿は、紋付き袴に白足袋という出で立ちで、旅姿というものではなかった、という話が伝わっています。
人は白足袋の柳田、地下足袋の宮本と言います。
* * * *
民俗学の赤坂憲雄さんという方が、「風景を作る思想をもとめて」というエッセイを寄せています。
宮本氏の著作集『自然と日本人』の中にある「日本人にとって自然とは」というエッセイを赤坂さんは紹介しています。
『日本人は自然を愛し、自然を大事にしたというけれど、それは日本でも上流社会に属する一部の、自然に対して責任を持たぬ人たちの甘えではなかったかと思う。自然の中に生きた者は自然と格闘しつつ第二次的自然を作り上げていった』
このテーゼこそ、宮本の風景論の核にあったものだ、と赤坂氏は断じます。
『もともと、その地に住む者にとって風景のよいというのは重荷であった。そういうところは真直ぐな道も平坦な道も少なく、生活を立てるには、その山坂をのぼりおりして働かねばならなかった。だから風景のよいといわれるところに住む人はどこでも貧しかった』
『……地元の人にとっては、そこにある自然が、そこに住む人に豊かな生活を立てさせてくれるものがよい自然なのである。しかもその自然から奪いつづけなければ生きてゆけない人生があった。生活をたてるために造りだした第二次的自然すらが、風景をたのしむようなものではなかった』
しかしこのことが、大きな変貌を遂げたのは、観光という第三のテーマが浮上してきたからでした。
宮本氏は「昔の上流階級の人々の自然観賞的な態度が、一般人の間に広がって、観光開発へと展開していった。昔は個人でこれを鑑賞したが、いまは大勢でおしかける、全ては自然への甘えである」
* * * *
私は赤坂氏が紹介してくれた、「風景のよいといわれるところに住む人はどこでも貧しかった…」という一節を読んだ瞬間に、榛村さんの生涯学習を思い出しました。
これこそまさに、榛村さんが林業と報徳を通じて形成した生涯学習の第1ページを飾る言葉だったはずです。
そんな一般には恵まれない境遇を生きて行くための知恵と覚悟を、これからの私たちはどのように伝えてゆくべきでしょうか。
今日1月30日は、宮本常一さんの命日。彼の命日は周防大島に咲く水仙から水仙忌と言われています。日本人がもっと知るべき人の一人だと思うのです。
この本を読みながら、よき日本は何かを考えました。 合掌。
【追記】
ちなみに毎日新聞が水仙忌について触れていました。 こちら → http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20070129k0000m070108000c.html
「宮本常一は、ふつう民俗学者として紹介されている。しかし、宮本が日本列島の上に印したおびただしい業績を展望すれば、そんな狭苦しいくくりだけでは到底おさまりきれない男だったということがすぐにわかる」(佐野眞一・ノンフィクション作家)
今日ご紹介するのは佐野眞一責任編集、河出書房新社「道の手帳 宮本常一~旅する民俗学者~」(1500円)です。
今日のこの本は、今また静かに読まれるようになっている宮本常一氏の人となりを、周辺の人物によるエッセイ、彼自身の未収録のエッセイ、昔の雑誌の中で彼に触れた原稿などを集めて紹介するものです。
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宮本常一氏は明治40(1907)年山口県周防大島に生まれました。
小学校を経てしばらくは大阪の郵便局で働き、やがて天王寺師範学校を卒業し、小学校教員となりました。
教員としても優秀で名が通ったのですが、その頃から民俗学、文学、歴史に詳しかったといいます。
昭和十四年、三十歳になった宮本は、満州の建国大学創立にあたって大陸に渡りたい、と渋沢敬三氏に相談したが、「身体も丈夫でない君が今から二つの外国語を習得するのは容易ではない。それよりも、君は瀬戸内海に生まれ、瀬戸内海が詳しいのだから、それを一生のテーマとして取り組んではどうか」と諭され、と同時に、「瀬戸内海を知るには日本全国を歩いてみなくてはならないだろう。旅はいくらしても良いから私のところに来てはどうか」と言われ、それから22年間もの間、渋沢家の食客となったのだそうです。
食客を招くという風がまだ生きていた古き良き時代の話ですね。
それから先の彼は、とにかく日本中を歩いて、土地の古老から上手に話を引き出し、ひたすらそれを原稿にするという毎日だったといいます。
そうして、まだ明治の人がかろうじて生き残っていた戦中戦後を通じて、それまでにはなかった底辺の人達の生き様から日本という国の民族の有りさまを探し求め続けたと言えるでしょう。
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民俗学の先駆的な立場に、その当時から柳田國男がいました。
柳田國男は東京帝国大学を卒業して農商務省に入り、最後には法制局参事官、宮内省書記官を勤めあげ、官僚としては檜舞台を歩いた人でした。
田舎を旅するときに柳田の姿は、紋付き袴に白足袋という出で立ちで、旅姿というものではなかった、という話が伝わっています。
人は白足袋の柳田、地下足袋の宮本と言います。
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民俗学の赤坂憲雄さんという方が、「風景を作る思想をもとめて」というエッセイを寄せています。
宮本氏の著作集『自然と日本人』の中にある「日本人にとって自然とは」というエッセイを赤坂さんは紹介しています。
『日本人は自然を愛し、自然を大事にしたというけれど、それは日本でも上流社会に属する一部の、自然に対して責任を持たぬ人たちの甘えではなかったかと思う。自然の中に生きた者は自然と格闘しつつ第二次的自然を作り上げていった』
このテーゼこそ、宮本の風景論の核にあったものだ、と赤坂氏は断じます。
『もともと、その地に住む者にとって風景のよいというのは重荷であった。そういうところは真直ぐな道も平坦な道も少なく、生活を立てるには、その山坂をのぼりおりして働かねばならなかった。だから風景のよいといわれるところに住む人はどこでも貧しかった』
『……地元の人にとっては、そこにある自然が、そこに住む人に豊かな生活を立てさせてくれるものがよい自然なのである。しかもその自然から奪いつづけなければ生きてゆけない人生があった。生活をたてるために造りだした第二次的自然すらが、風景をたのしむようなものではなかった』
しかしこのことが、大きな変貌を遂げたのは、観光という第三のテーマが浮上してきたからでした。
宮本氏は「昔の上流階級の人々の自然観賞的な態度が、一般人の間に広がって、観光開発へと展開していった。昔は個人でこれを鑑賞したが、いまは大勢でおしかける、全ては自然への甘えである」
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私は赤坂氏が紹介してくれた、「風景のよいといわれるところに住む人はどこでも貧しかった…」という一節を読んだ瞬間に、榛村さんの生涯学習を思い出しました。
これこそまさに、榛村さんが林業と報徳を通じて形成した生涯学習の第1ページを飾る言葉だったはずです。
そんな一般には恵まれない境遇を生きて行くための知恵と覚悟を、これからの私たちはどのように伝えてゆくべきでしょうか。
今日1月30日は、宮本常一さんの命日。彼の命日は周防大島に咲く水仙から水仙忌と言われています。日本人がもっと知るべき人の一人だと思うのです。
この本を読みながら、よき日本は何かを考えました。 合掌。
【追記】
ちなみに毎日新聞が水仙忌について触れていました。 こちら → http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20070129k0000m070108000c.html