駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

宝塚歌劇月組『ME AND MY GIRL』

2010年02月23日 | 観劇記/タイトルま行
 東京宝塚劇場、2008年6月10日マチネ、6月17日ソワレ。

 1930年代のイギリス、ロンドン近郊の高級住宅街メイフェアにあるヘアフォード家では、当主が亡くなったため、妹のマリア公爵夫人(出雲綾)が家を切り盛りしていた。遺言により当主のひとり息子が世継ぎとされていたが、亡きヘアフォード卿の落とし胤であるその世継ぎは長年行方不明だった。ある日、弁護士のパーチェスター(未沙のえる)が彼を見つけ出し、屋敷につれてくることになるが、その世継ぎウィリアム・スナイブスン(瀬奈じゅん)はロンドンの下町ランベスに住むコクニー訛り丸出しの粗野な青年だった…作詞・脚本/L・アーサー・ローズ、ダグラス・ファイバー、作曲/ノエラ・ゲイ、脚色/小原弘稔、脚色・演出/三木章雄、翻訳/清水俊二、訳詞/岩谷時子。1937年ロンドン初演、宝塚では87年、95年、96年に続く四演目。

 ユリちゃんのビル、ヨシコのサリー、ノンちゃんのジョン卿、マミのジャッキー、ズンコのジェラルドを観た再演東京公演、そしてノンちゃんのビル、ユウコのサリー、ジュリちゃんのジャッキーが観たくて名古屋まで行った再々演…懐かしいです。最近では東宝公演を観ましたが、やはり宝塚版がいいですねえ。あのサリーの赤いワンピースを見るだけで胸がきゅんとなります。

 アサコのニンはビルにぴったり。
 これで退団のミホコはなんでもできる娘役でしたが、実はこういう下町娘が一番似合っていたのかというハマりぶり。セリフの声は低く歌は高く、すばらしかったです。しょっぱなの「ミー&マイガール」からもう泣きそうでした、私。
 キリヤンも本当になんでもできる人ですばらしいんですが、いかんせん上背がないのがつらいのかなー。ミホコの後のトップ娘役がすんなり決まらないのは、キリヤンとの映りを考えてのこともあるのでしょう。
 ジャクリーンは明日海りおと城咲あいのダブルキャストでしたが、娘役好きの私としては残念なことに、男役の明日海りおの方がよかったなー。マミのイメージがあるからかな?
 マリアもこれで退団でフィナーレではなんとエトワールを務めていますが、まろやかな歌声はすばらしかったです。執事ヘザーセットは大好きなキャラクターですが、この越乃リュウも素敵でした。

 ハート・ウォーミングなダブル・シンブレラ・ストーリーで、フィナーレでは三組のウェディング・カップルが出来上がるハッピー・ミュージカルで、みんながニコニコ観られるとても素敵な演目です。また役者のニンを選んで、再演を続けてほしいものです。
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『空中ブランコ』

2010年02月23日 | 観劇記/タイトルか行
 東京芸術劇場、2008年4月21日ソワレ。

 サーカス団のエース・山下公平(坂元健児)は空中ブランコで後輩キャッチャーの内田(今奈良孝行)と息が合わず、落下を繰り返して情緒不安定になっていた。妻・エリ(高橋由美子)の勧めで近所の伊良部総合病院を訪れると、御曹司で精神科医の伊良部一郎(宮迫博之)と看護士のマユミ(佐藤江梨子)に担当されるが…原作/奥田英朗、脚本/倉持裕、演出/川原雅彦。

 直木賞受賞作の原作を昔読んだはずですが、あまり覚えていません…
 テレビドラマ化もされたんですよね。そんなにものすごい素材とも正直思えないのですが、何故なんだろう、この人気は…

 初日が開いてすぐの舞台だったせいか、若干バタバタして見えましたが、心象風景が上手くサイケなミュージカルシーンになっていて、おもしろい舞台でした。

 なんと言っても主演の宮坂博之がいい。ちゃんと芝居にしていました。もともとがお笑い芸人さんで芸達者ではあろうと思っていましたが(テレビドラマでは俳優としても活躍しているし)、たとえばバラエティ番組のノリで、ほぼ素でなんとなく変人ぶる…というような作りにしてくるのかな、と思ってしまっていたのですが、失礼いたしました、おみそれしました、という感じ。ちゃんと役を作り、演技をしていました。そしてちゃんと伊良部っぽい。よかったです。

 サトエリちゃんの巨乳と美脚も堪能しました。こちらは芝居らしい芝居をするシーンが特にないので、演技としてどうなのかはよくわかりませんでしたが。

 ただ、お話としては、若干すっきりしなかったかなー。
 みんながみんな、何かしら問題を抱えていて、それこそが現代だ、という原作や演出のメッセージがあるとはいえ、観客がほぼゼロから観る場合には、基軸が欲しいというか、フラットなキャラクターがいてくれないとわかりづらい、話に入りづらい…というのはあると思います。しかもストーリーそのものも、問題がすべて解決するわけではない…という形なので、なおさらすっきり感には欠けるわけで…難しいものですね。

 他のキャラクターもやや多すぎ…という気もしました。芸達者の脇役を多数そろえて豪華なだけに、焦点がボケたかなー。とはいえもちろんほぼ主人公の坂元健児も大健闘しているわけなんですが。うーむむむ…
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『ラ・マンチャの男』

2010年02月23日 | 観劇記/タイトルや・ら・わ行
 帝国劇場、2008年4月15日ソワレ。

 16世紀末、セビリアの宗教裁判所の牢獄に、セルバンテス(松本幸四郎)が従僕とともに投獄されてくる。刺激に飢えていた囚人たちは新入りを小突き回し、あげくに牢名主(瑳川哲郎)が裁判をやろうと言い出す。セルバンテスは即興劇の形で申し開きを始める。彼はさして若くない田舎の郷士アロンソ・キハーナに扮し、彼が自分を「遍歴の騎士ドン・キホーテ」だと思い込み始めるところから語り始める…脚本/デール・ワッサーマン、作詞/ジョオ・ダリオン、音楽/ミッチ・リー、訳/森岩雄・高田容子、訳詞/福井峻、演出/松本幸四郎。日本初演は1969年。全1幕。

 私は以前一度1999年に観劇していて、そのときのアルドンサは鳳蘭、松たか子はアントニアでした。
 内容は覚えていないもののとにかく感動した記憶があって、松たか子がアルドンサを演じるようになってからもずっと再度観たいものだと思っていたのが、やっとチャンスがめぐってきました。

 やっぱりよかったです。泣いたのは「見果てぬ夢」ではなく、「アルドンサ」でしたが。
 考えようによってはこれを親子で演じる、というのはすごいなあ。
 もちろんアルドンサ/ドルシネアはドン・キホーテの恋人ではなく「想い姫」なのであり、敬意を払い誠意を捧げる相手だから、男女じゃなくてかまわないわけではあるんですけれどね。ある意味で娘というのは父親にとってはそういう存在ではあるのかもしれない。
 しかしアルドンサがたどる道はけっこうというかかなり過酷なので、それを娘に演じさせるのは父親としては思うところはあるかもしれません。でも松たか子はとてもとてもよかったと思います。ちょっとクセのある発声で、舞台らしくていいんだけど、松本幸四郎のナチュラルさとはでももしかしたら合いづらいのかなあ? むしろあれはキハーナの天然っぷりを出していいのかなあ?

 演出補に就いている松本紀保(この名前は「キホーテ」からきているんだそうだ!)もアントニアは演じたことがあって、それはわかるんです。彼女はキハーナの姪ですからね。
 もっとも彼女も心優しいばかりの娘ではなく、むしろいき遅れ気味の自分の縁談が叔父の発狂で流れてしまうのではないかと許婚の顔色ばかりうかがっている、エセ聖女なんですけれどね。
 今回は月影瞳。宝塚時代のちょっと鼻にかかったった声は健在で、ものがたそうででもちょっとずるそうな感じもきちんと出せていて好演だったと想います。

 床屋の駒田一も『レ・ミゼラブル』でテナルディエを観たばかりでしたが、今回も楽しいコメディ・リリーフでした。

 感動したのがカラスコ博士(福井貴一。かつて『レ・ミゼ』アンジョルラスも!)。アントニアの婚約者であり、キハーナの財産を狙っていて、常識とか世間を代表する役ですが、ただの悪役に見えてしまわない説得力がありましたし、りりしい二枚ふうなのがすばらしい。つまり彼のことを否定すればいいってことではないからです。
 フィナーレでも、アルドンサが歌い始めた「見果てぬ夢」に囚人たちが唱和して行く中、彼だけが背を向けているのです。私の席からは見えなかったのですが、もしかしたら舞台の上手ではアントニアもまた背を向けていたかもしれません。そのリアルさがすばらしいと思う。彼らを簡単に転向させていい人にしてしまわないところが。彼らの言い分も認めるところが。そうであってこそ、キハーナの言い分もまた認められるのですから。

 「あるものだけを見るのではなく、あるべき姿を夢見て、そのために戦うことが大切なのだ。それをしないことこそ本当の狂気だ」というメッセージを、ドン・キホーテの姿を借りて、キハーナが、セルバンテスが、ワッサーマンが訴えます。それは本当に正しいことだと思う。けれどそれを信じて傷つくのはいつも女なのです。
 旅籠の酒場の女として、何も考えずに生きてきた女が、尊重され、そういうものの存在を初めて知った。自分もそう生きてみようとして、でも手ひどくねじられる。もちろん彼らは彼女の魂を傷つけることはできない。彼女は変わらない。でも陵辱が傷つけるものは確かにあるのです。「あたしはアルドンサよ」と叫ぶ彼女の金切り声に身をかきむしられる想いをしない女はいないのではないでしょうか。
 でも、絶望しても、彼女はもう、何も考えないでいられたころには戻れない。家に戻されたキハーナを自ら尋ね、「あたしはドルシネアよ」と言う。それは逃避でもごまかしでもないし、「アルドンサ」を捨てたことでもない。両方とも彼女自身なのであり、彼女が成長した証なのです。キハーナが死んでも、それは残るのです。
 だからみんなが「見果てぬ夢」を歌う。しかし博士は背を向けている。そのリアルさ。でもそれはニヒルなのではなく、皮肉を利かせているのでもなく、ただ事実を提示しているだけだと思う。そういう人はいつの世にも一定数いる。減ることすらないのかもしれない。けれど増えなければいい。夢見ることの大切さを訴えてさえいければいい…そんな舞台なのではないでしょうか。いや名作だ。

 地方の中学校の修学旅行らしい団体が来ていましたが、わかるかなあ。劇中劇って舞台の舞台らしい特徴のひとつだと思うんだけれど、初心者にはわかりにくいかしらん。
 そしてアルドンサのレイプシーンはショッキングでむごく(『ウエストサイドストーリー』なんかもそうですが)、教育上問題があるかもしれない。
 私は引率の先生の心理を慮ってしまいました。でも、何かが残るといい。きっと伝わるものはあるはずだ、と思いました。

 最後に、松本幸四郎。この日のマチネが公演1100回記念ということで、大変なものですが、これからもがんばってほしいです。
 セリフは滑らか、滑らか過ぎるくらいか?とも思い、歌も微妙は微妙かも?とも思いましたが、「見果てぬ夢」はさすがにさすがでした。

 オケが舞台の両サイドにいて、最初に指揮者が中央に出てきて序曲を奏でるのも、この入れ子構造の一環という感じで、いい演出でした。
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『トライアンフ・オブ・ラヴ』

2010年02月23日 | 観劇記/タイトルた行
 銀河劇場、2008年4月7日ソワレ。

 18世紀のヨーロッパ。スパルタの王女レオニード姫(朝海ひかる)は、正統な王位継承者である前王の遺児アージス(武田真治)に王冠を返そうと決意。隠遁生活を送るアージスの元へ忍んで行くが、彼を見た瞬間、一目惚れしてしまう。一方のアージスは、哲学者である叔父のエルモクラテス(藤木孝)と叔母のヘジオニー(杜けあき)に王位簒奪者への復讐心を教育され、今日まさにレオニード暗殺に旅立とうというところだった…修辞・訳詞・演出/小池修一郎、台本/ジェームズ・マグルーダー、作曲/ジェフリー・ストック、作詞/スーザン・バークンヘッド。18世紀フランスの喜劇作家マリヴォーの小説『愛の勝利』をミュージカル化した作品で、1997年ニューヨーク初演、本邦初演(ストレート・プレイ版『愛の勝利』はデヴィッド・ルヴォー演出で1999年本邦上演あり。2001年にはベルナルド・ベルトリッチ監督による映画化もあり)。

 「男装の王女が王子の愛を得るために巻き起こす騒動を描いた傑作艶笑譚」ということで、まずコムちゃんのキャスティングありき…という企画だったのではないかと推察されるのですが、そういえば私は別に宝塚歌劇団の現役時代も彼女のファンでは特になかったのであった…
 「男装」という意味では、元男役の女優を持ってくるよりもむしろ、元娘役の女優を配した方が的確なのではないでしょうか。なんと言っても彼女たちは一番近くに「男役」を見ているので、真似しやすいのではないかと。男役当人は「男装」しているのではなく「男」を演じているので、ちょっとちがうんじゃないかと思うんですよね。
 ま、別にレオニードの男装にできすぎだったとかそういうことは特になかったので、それはいいのですが。

 というか、楽曲が非常に難しく、聴いていてもフラストレーションがたまるものが多くて爽快感に欠けていた中、主にショーアップ部分を担当していたからということもありますが、最も達者で場をさらっていたのは侍女コリーヌ役の瀬戸カトリーヌだったのですが、きれいなソプラノの彼女がヒロインをやるんでもまったく問題なかったのでは?という素朴な疑問がどうしても出てきてしまうわけです。彼女がOSK出身で宝塚音楽学校の受験は三度受けて三度落ちたというのは、なんともはや。
 とにかくコムちゃんは、退団してもう丸一年が過ぎているのに、まだまだ声はあやしいと言わざるをえないと思いました。
 そういえばカリンチョさんとコムちゃんは同じ雪組出身で、間は…6、7人のトップを挟む形になるのか? これもまた奇遇と言えば奇遇ですね。

 キャストは他にアルルカン役のtekkenと、庭師ディマース役の右近健一。コリーヌ同様、脇役なのですが、メイン四人よりずっと達者ですばらしかったです。
 しかし彼らにすら、劇中劇?での衣装替えもあったというのに、ひとり王子だけが着たきり雀とはひどい。フィナーレは結婚衣裳で出てきてもよかったはずです。

 武田真治のミュージカル・デビューは『エリザベート』だったわけですが、今回はこの楽曲では歌がうまいんだかなんなんだかわかんないなー、というのが正直なところ。ただしやはりミュージカルは別に歌がすべてでもなんでもないわけで、普通のセリフの芝居がちゃんとしていれば客席は当然反応するわけです。自分だけが肖像画をもらえなかったと知って拗ねる芝居に自然に起きた客席の笑い声が、その証。もっとセリフで、純粋培養の天然王子っぷりを演出されてもよかったのになーと思いました。でもまあよかったです。

 これは、理性とか道理とか理屈とか理論とかに凝り固まった男(とハイミス)の苑に、愛と元気に満ちあふれた女の子が乗り込んでいって征服し勝利を収め、「愛と理性を調和させて幸せにやっていきましょうね」という結論に至るという、現代的な目で見ればいかにも現代的なお話なので、そういうふうな色付けをもう少しやってもよかったかなと思いました。フェミニズムを打ち出せ、というんじゃないんだけれど、観客の多くは女性なんだから、やはりそこをくすぐられればより楽しかったろうと思うのです(だからこそ、下品な下ネタはNG。おもしろくもなんともない、ただただ不快です)。
 私には当初、レオニード姫のキャラクターがまったくつかめなかったため、けっこう混乱しました。ただの世間知らずのお嬢様とか、何もできないお姫様なんかじゃなく、バイタリティあふれ機転が利く今時の女の子なんだ…ということを、せっかくのイントロシーンでもっと印象付けるとよかったと思います。単にヒラヒラのわっかのドレスを着たコムちゃんを見せるためだけに、客席通路を渡らせるんでなく。それが抑えられていたら、彼女が美青年のふりしてヘジオニーを誘惑してしまうのも、小悪魔少女のふりしてエルモクラテスを誘惑してしまうのも、納得できるのですが…
 ところで芝居を観ている限りでは、レオニードはアージスの正体を知らずに一目惚れしているようですし、自らの王位の正当性の危うさにものちほど初めて気づいているようです。それはそれでもかまわないんだけれど、では何故彼女はのこのことこの苑にやってきたんだ?という疑問は残りますね。
 実際にはもちろん彼女にはなんらの罪はなく、担ぎ出されただけで、彼女の親もおそらくは前王の兄弟だったのでしょうがそれはもうご存命ではないんでしょうかねとかいうことはまあ些細なことです。
 ギリシア神話オタクとしては、レオニダスとかアイギストスとかヘシオーネとかいうネーミングはいたくそそられるものでした。
 ところでこの劇場のアナウンスのセンスはいつもおかしいと思う。少なくとも私は毎回恥ずかしい。
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