文藝春秋。奈津、35歳、脚本家。尊敬する男に誘われ、家を飛び出す。「外の世界」に出て初めてわかった夫の支配、男の嘘、抑圧されていた自らの性欲の強さ。もう後戻りはできない…第16回島清恋愛文学賞受賞作、第22回柴田練三郎賞受賞作、第4回中央公論文芸賞受賞作。
あとなんだっけ、まだ受賞していたと思います。
ま、女の目から見た性愛云々がどうのこうのという評価については、もういいや。
経験が少ない方であろう私が見ても、出てくる男性キャラクターが見事に戯画化されていて典型的なタイプになっているのは、とてもよくわかります。なんら目新しいことはない、ホント男ってこんな感じ。
たとえばヒロインの夫・省吾の質の悪さ。
夫を支えているようで支配する…というのは、一時代前の普通の家庭の主婦が普通にやっていたことではあると思います。母親に支えられ支配されて育つ普通の男は、そのことに気づきもしないし、だから不快にも思わない。
けれど現代において意識的に男が妻に対しこの役割に回った場合、そう簡単には収まらない場合が多い。男の方には普通は屈託があるはずだし、女の方にもなんらかの才覚があるからこそのこの役割分担になるわけで、そのとき絶対にこれを重く苦痛に感じるものですよ。女が父や母の支配下で育った子供であったとしても、現代の恋愛では相手に対等な関係を求めるだろうから、夫にそういう形で支配されるのには苦痛を感じることでしょう。
でも男は、だからこそますます、妻を支配するでしょうからねー。
そういう関係があってもなくても、弱い犬ほどよく吠える感じとか、謝らない感じ、甘え上手な感じ、潔くない感じ…ホント「わかる!」って思いました。
逆に志澤一狼太は、まあこのペンネームからしてどうなのよ、って感じですが、こういうおじさんを見たことはたくさんあるけどこういうおじさんに女扱いされたことがないのでよくわかりませんが…でもいかにもいそう、ってのはわかる。
志澤宛てに出したヒロインのメールの文面の甘え方がもう本当にイヤ。嫌いになるギリギリ。わかるけれども。
この男も、口だけで、マッチョで、何様だよって感じ、すごくわかります。
そして岩井良介…これまた草食系男子、これまたファンタジーでは?と思うほどの一種の理想的な存在でしょうか、これまたいると思うなー。
この人が妻子をヒロインのために捨てなかったのは何故かといえば、やっぱり妻のこと初まで好きだったんだと思う。それにつきますね。ヒロインしか好きじゃなかったらさっさと別れていただろうけど、きっとそうじゃなかったんです。違う形で違うように好きだから、ヒロインとは一部の時間でしかつきあえなかった。それを承知で始めたつきあいだけど、ヒロインが寂しい、物足りないと思ってしまうのもまた仕方ないわけです。
では大林一也がさらに理想の存在なのかというと、もちろん違うわけです。
もちろん独身なので、その意味では全部の時間をヒロインにくれるのかもしれないけれど、食うや食わずの俳優だからバイトの時間以外、ということになるし、この先彼が本当に脚本を書き出したら、思うように書けても書けなくても、ヒロインとの間に絶対に軋轢が生まれる。ヒロインの脚本の舞台に彼が出ても出なくても、それが成功してもしなくても、絶対に軋轢が生まれる。
そういうことがなくても、いつか絶対に軋轢が生まれる。だって彼は今ですら若い女を目で追いかけることを忘れない、という描写があるのだから。
あるいはこの描写があってもなくても、軋轢はいつか絶対に生まれ、ふたりは別れるのです。ヒロインが何人かの男を渡り歩いて、大枚のページをはたいて書かれたこの物語の結論は、結局のところそういうことです。
永遠の愛なんかない。タイミングの合う恋愛はそうそうない。永続する関係なんかない。情熱はいつか絶対に冷める。完璧なものなどない。だけど人は完璧なものを求めてさまようことをやめられない…
そういう不毛さが、結論です。
もちろん、本当は、存在するのです。奇跡的に、平凡に。本当に相性が合い、タイミングが合い、一緒に衰えていき、そのことも気づきもしないような円満な関係というものが。
でもそれではドラマにならない。
だからこの作品は、フィクションの不毛さをも描いているのだ、と私は思います。
あとなんだっけ、まだ受賞していたと思います。
ま、女の目から見た性愛云々がどうのこうのという評価については、もういいや。
経験が少ない方であろう私が見ても、出てくる男性キャラクターが見事に戯画化されていて典型的なタイプになっているのは、とてもよくわかります。なんら目新しいことはない、ホント男ってこんな感じ。
たとえばヒロインの夫・省吾の質の悪さ。
夫を支えているようで支配する…というのは、一時代前の普通の家庭の主婦が普通にやっていたことではあると思います。母親に支えられ支配されて育つ普通の男は、そのことに気づきもしないし、だから不快にも思わない。
けれど現代において意識的に男が妻に対しこの役割に回った場合、そう簡単には収まらない場合が多い。男の方には普通は屈託があるはずだし、女の方にもなんらかの才覚があるからこそのこの役割分担になるわけで、そのとき絶対にこれを重く苦痛に感じるものですよ。女が父や母の支配下で育った子供であったとしても、現代の恋愛では相手に対等な関係を求めるだろうから、夫にそういう形で支配されるのには苦痛を感じることでしょう。
でも男は、だからこそますます、妻を支配するでしょうからねー。
そういう関係があってもなくても、弱い犬ほどよく吠える感じとか、謝らない感じ、甘え上手な感じ、潔くない感じ…ホント「わかる!」って思いました。
逆に志澤一狼太は、まあこのペンネームからしてどうなのよ、って感じですが、こういうおじさんを見たことはたくさんあるけどこういうおじさんに女扱いされたことがないのでよくわかりませんが…でもいかにもいそう、ってのはわかる。
志澤宛てに出したヒロインのメールの文面の甘え方がもう本当にイヤ。嫌いになるギリギリ。わかるけれども。
この男も、口だけで、マッチョで、何様だよって感じ、すごくわかります。
そして岩井良介…これまた草食系男子、これまたファンタジーでは?と思うほどの一種の理想的な存在でしょうか、これまたいると思うなー。
この人が妻子をヒロインのために捨てなかったのは何故かといえば、やっぱり妻のこと初まで好きだったんだと思う。それにつきますね。ヒロインしか好きじゃなかったらさっさと別れていただろうけど、きっとそうじゃなかったんです。違う形で違うように好きだから、ヒロインとは一部の時間でしかつきあえなかった。それを承知で始めたつきあいだけど、ヒロインが寂しい、物足りないと思ってしまうのもまた仕方ないわけです。
では大林一也がさらに理想の存在なのかというと、もちろん違うわけです。
もちろん独身なので、その意味では全部の時間をヒロインにくれるのかもしれないけれど、食うや食わずの俳優だからバイトの時間以外、ということになるし、この先彼が本当に脚本を書き出したら、思うように書けても書けなくても、ヒロインとの間に絶対に軋轢が生まれる。ヒロインの脚本の舞台に彼が出ても出なくても、それが成功してもしなくても、絶対に軋轢が生まれる。
そういうことがなくても、いつか絶対に軋轢が生まれる。だって彼は今ですら若い女を目で追いかけることを忘れない、という描写があるのだから。
あるいはこの描写があってもなくても、軋轢はいつか絶対に生まれ、ふたりは別れるのです。ヒロインが何人かの男を渡り歩いて、大枚のページをはたいて書かれたこの物語の結論は、結局のところそういうことです。
永遠の愛なんかない。タイミングの合う恋愛はそうそうない。永続する関係なんかない。情熱はいつか絶対に冷める。完璧なものなどない。だけど人は完璧なものを求めてさまようことをやめられない…
そういう不毛さが、結論です。
もちろん、本当は、存在するのです。奇跡的に、平凡に。本当に相性が合い、タイミングが合い、一緒に衰えていき、そのことも気づきもしないような円満な関係というものが。
でもそれではドラマにならない。
だからこの作品は、フィクションの不毛さをも描いているのだ、と私は思います。