平成18年に60歳を迎える。六十と縦に書くと傘に鍋蓋(亠)を載せた形である。で、「かさぶた(六十)日録」
かさぶた日録
掛川城公園の「浅井小一郎翁碑」を読み解く その2
午後、駿河古文書会に出席する。今日と次回は四十七士に一人、小野寺十内が妻に当てた手紙を読む。「人の鑑」と題して、江戸時代にその書簡集が出版されていて、その解読である。季節にぴったりの課題である。それにしても、古文書会の先輩方は、討ち入りについて、まるで昨日のことのように知っておられる。それは自分にとって大きな驚きであった。
「浅井小一郎翁碑」の解読を続ける。
同(明治)六年、浜松瞬養校に入り、翌年卒業、嶺向学校訓導に為る。後に中村学校に転じ、同十一年、岡田淡山先生に就き、報徳学を学び、兼ね農学を修む。衆民に率先し、山野を開拓し、茶、桐、柑橘を栽(うえ)る。
※ 浜松瞬養校(はままつしゅんようこう)- 明治8年に設立された教員養成学校。その後、静岡師範学校に合併。(「同六年」は8年の間違いか。)
※ 嶺向学校(みねむかいがっこう)- 掛川市上土方嶺向に出来た学校。後に土方小学校に発展。当時、女性医師育成に生涯を捧げた吉岡弥生が入学し学んでいる。
※ 訓導(くんどう)- 現行の教育法令でいう教諭と同等の職にあたる。
※ 中村学校(なかむらがっこう)- 現在の掛川市立中(なか)小学校。浅井小一郎は初代校長。
※ 岡田淡山(おかだたんざん)- 岡田良一郎。遠江国佐野郡倉真村出身。雅号の淡山は、掛川にある粟ヶ岳(淡ヶ岳)にちなんでいる。二宮尊徳の弟子として報徳思想の普及に尽力し、地域の振興に努めた。長男は岡田良平、次男は一木喜徳郎、三男は竹山純平(竹山道雄の父)。
(明治)廿四年、掛川農学社講師に為る。三十一年、遠江報徳社訓導に為る。翌年、淡山先生に陪し、報徳を伝え、愛媛県に強(つと)む。後、独り六年留り、功績顕著なり。三十九年、帰り、浜松報徳館を守る。四十四年、名誉訓導と為り、爾後、退隠し、読書、詠歌に自から楽しむ。
※ 掛川農学社(かけがわのうがくしゃ)- 明治11年に、岡田良一郎が創立した。農業技術の普及に尽くした。
※ 遠江(国)報徳社(とおとうみほうとくしゃ)- 明治8年、岡田良一郎らにより創設された。その後、明治44年に大日本報徳社の本社となり、報徳運動の中核となった。
※ 陪す(ばいす)- 供をする。付き従う。
※ 退隠(たいいん)- 職を退き、暇な身分となること。
翁、人質として、直に毫(ごう)も虚飾無く人を教え、諄々と道を説く。肫々皆至誠に出で、身を報徳に委ねる。四十年一日の如く、公私受賞数十回。社徒、君子人として目す。二宮大先生曰く、吾が道、至誠と実行のみ。その体験諸者に我が有徳の翁在り。
※ 人質(ひとだち)- 人の生まれつきの性質・体質。
※ 毫も(ごうも)- すこしも。
※ 諄々(じゅんじゅん)- 相手にわかるようによく言い聞かせるさま。
※ 肫々(じゅんじゅん)- 仁慈のいきわたっているさま。
※ 社徒(しゃと)- 報徳社の弟子たち。
※ 君子人(くんしじん)- 徳行がすぐれ、君子とよぶにふさわしい人。
※ 目す(もくす)- 見る。
始め西原氏を娶(めと)り、早歿後、石川氏を娶り、四男二女を挙(あ)ぐ。長子亮策、後を承ける。今茲(ここ)に、友人相議(はか)り、掛川報徳館側(そば)に碑を建て、以って不朽を謀る。
昭和三年五月 道友 橋本孫一郎撰
道弟 鈴木良平書
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