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「歌え!! ムスタング」-川崎のぼる·作画-

 川崎のぼる先生作画の「歌え!! ムスタング」は僕が子供時代に愛読していた週刊少年サンデーに連載されてました。子供時代といっても僕はもう中一の年齢ですね。

 「歌え!! ムスタング」は川崎のぼる先生オリジナルの作品だとばかり思い込んでいたのですが、原作付き漫画で、原作者は福本和也氏ですね。

 この時代の熱血青春漫画には珍しく、作品のテーマや舞台は“音楽”です。主人公少年がドラマーだからロック系かな?まぁ、日本のポピュラー音楽の世界ですね。

 少年漫画の世界で作品土台のテーマに“音楽”を持って来た“初めて”の漫画作品なんじゃないかな?漫画作品の中では、多分最初だろうと思う。手塚治虫先生が描いてるだろうか?

 手塚治虫先生にはベートーベンの生涯を描こうとしていた遺作「ルードウィヒB」があるけど、1987年制作の作品だしな。ただ、手塚先生の膨大な数の短編の中には“音楽”テーマの作品がけっこうあると思う。それも「歌え!! ムスタング」が描かれた1967年以前に幾つも。

 「歌え!! ムスタング」の週刊少年サンデー連載期間は1968年第30号から69年第19号まで。週刊誌の30号はだいたい6月頃で、19号は4月頃の発行ですね。僕は中学一年生で、連載終了は僕が中学二年生になったばっかりの頃ですね。

 この時代の週刊少年サンデーは、当時住んでた町の近所の幼なじみになるFT君が買った少年サンデーで、毎週、僕が週刊少年マガジンを買って来て、FT君がサンデーを買って、翌日か翌々日かにお互い交換して読んでた。交換することで僕もFT君も毎週二冊の週刊漫画誌が読めた。

 僕やFT君やもう1人の幼なじみMM君の住んでた家があった通りは、今は見る影もなく無残な空き地だらけの通りとなっているけど、当時は地方の町としてはかなり賑やかな商店街だった。

 「歌え!! ムスタング」は少年サンデー連載中はリアルタイムで全編読んでいるけど、その後の単行本での再読はない。

 そもそも「歌え!! ムスタング」は連載終了後はコミックスや文庫の単行本にはなっていないんじゃないかな。

 僕が「歌え!! ムスタング」を連載リアルタイムで読んでから、もう55年くらいも年月が経っていて再読は果たしていないから、僕自身「歌え!! ムスタング」のお話の詳細などほとんど覚えていない。

 ただ、ロックかジャズかポピュラー音楽の世界が舞台で、一流のドラマーを目指す少年か青年かの熱血青春物語だった、ということとわずかな一場面を二つくらいぼやっとおぼろに覚えているくらいだ。

 それで、「歌え!! ムスタング」のことをネットを回って調べました。すっかり忘れきってましたが、主人公の少年は最初はプロ野球選手を目指す野球少年なんですね。このあたりの詳しいことは解らないのですが、野球のある試合で大ケガをするらしい。重傷のケガで後遺症が残り、もう野球のできない身体になってしまうらしい。このあたりの場面で当時の読売巨人軍の川上哲治監督が、この漫画に登場するらしい。

 らしいらしいで恐縮ですがもうほとんど覚えてないですからね。確かにリアルタイムで読んではいるのですが。巨人に入団が決まっていたのが破棄になるらしいですね。

 そこからヤケになっていた主人公少年に外国人の牧師さんかな、ジャズ音楽の素晴らしさを教える。

 音楽に興味を持った主人公少年がギターを弾いて見るが、後遺症の残る手では思うようにギターが弾けない。少年は再び絶望する。何かこのへんのシーンで素晴らしいジャズピアノを弾く黒人ピアニストが、多分ベトナム戦争でしょう、無理やり戦争に連れて行かれる場面などもある。時代ですね。

 このあたりのエピソードは、作家-五木寛之氏の短編「海を見ていたジョニー」を思い出させる。

 五木寛之さんは60年代後半から70年代は超大人気の流行小説~中間小説の作家さんでした。

 そこから今度は素晴らしいドラムを叩くオジサンに出会い、その、見た目サエナイ貧乏くさいが骨のある頑固オヤジみたいなオジサンをドラムの師匠と仰ぐのかな。

 この師匠のオヤジは、元凄腕の名ドラマーだけど今は落ちぶれたアル中の貧乏オッサンらしいですね。

 このアル中オジサンの、弟子の少年を鍛えるドラムの指導方法が、ドラムのバチ、ドラムスティックですね、少年に先端に鉛の重みを着けた重いスティックでドラムを叩かせる練習があるらしい。スポーツ根性ものみたいな描写ですけど、少年は野球のケガの後遺症で腕か手首か手そのものが少々不自由だったらしいから、そのハンデの克服方法だったんでしょうね。多分。

 野球をケガで断念した少年が、再起のために命を懸ける世界はジャズの世界で、少年がハンデを持ちながらも懸命に練習するのはドラムで、少年は一流のジャズドラマーになることを目指す。

 しかし最後は悲しい結末が待っている。一生懸命、青春の炎を燃やすけれども結局、救われないドラマですね。

 漫画の物語が進んで行く中で、この時代、GSブームの中で超大人気だった、歌謡ロックのグループ、タイガースも出て来る場面があるようです。

 途中で、クレイジーキャッツのメンバーの谷啓さんが出る場面がある。僕はこの場面は覚えてます。谷啓さんが、何か音楽イベントの司会進行係をしている。MCですね。

 主人公少年が誰か、多分ドラムの師匠と一緒に観覧している。隣の男が少年に「あの谷啓は司会をしているが実は谷啓は一流のトロンボーン奏者で演奏は抜群に上手い」とか何とかいうことを話して聞かせる。何故か僕はこのシーンは記憶している。

 あとは記憶しているシーンは最後の悲しい場面。もうネタバレしてしまうけれど、実は主人公少年は不治の難病に侵されていて、命は二年間くらいしかもたない。

 この重大な件は漫画の初めの方で明かされるのかな?本人だけが知らないんだよね。物語が進行して行くに連れて主人公少年の死期がどんどん近付いて来る。

 最終回では、主人公少年、少年って青年くらいの年齢に見えるけど、青年でもいいのかな、読売巨人軍に入団できる、野球の夢を絶たれて音楽の道に乗り出して行くのだから、そのジャズ青年が不治の病で、いよいよ病気も最終局面に来た。

 主人公青年は、ジャズドラムの道に乗り出して歩んで来た短い人生の中で知り合った、親友と呼べる仲の良い男女の数人に見送られ、浜辺だったか岸壁だったか海辺で、暗い海に浮かべた一艘の小さなボートにドラムセットを乗せて、最後の力を振り絞ってジャズドラムを叩いて演奏し、小舟はじわじわと陸から離れて行く。

 要するに、夜の闇の中で陸から離れて行く、小さなボートから、遠ざかって行くドラムの音が聞こえなくなったら、そのときが主人公青年の命の灯が消えたときなんですね。

 はっきりと主人公の死を描きはしなかったけど、そうやって遠ざかり見えなくなるボートを描いて物語はそこで終幕となります。その夜の後のことは何も描かれはしてなかった。

 悲しい最後でしたねぇ。この場面だけはけっこうしっかりと覚えています。印象的な最終回だったですね。

 「歌え!! ムスタング」の主人公青年がジャズドラムの修行をする二年間くらいの短い間の物語の、熱血感動漫画ですが、主人公は結局、ジャズドラムでなにがしかの舞台に立てるまでは行かなかったと思う。

 ジャズドラムでひとかどのドラマーと言える立場になる前に死んでしまう、救いのない悲しいドラマだった。日本国内の音楽修行の流浪だけで、別に外国に修行に渡るなんてことはなく、けっこう早く命が尽きてしまうし。

 あ、そう言えば、音楽テーマの漫画で、80年代の作品だけど、狩撫麻礼·原作で谷口ジロー·作画の「LIVE!! オデッセイ」という劇画があったな。あれはロックだったんだっけ?レゲエ?

 最近の作品で話題となった人気作品で、「ブルージャイアント」というジャズ音楽を題材とした、大長編の人気漫画がありますね。

 ただ僕はこのジャズの世界に懸ける、一青年の音楽修行の成長物語の漫画を1ページも読んだことがないので、「ブルージャイアント」に関しては何も語れませんが。この作品では本場アメリカに渡って修行するみたいだけど。

 読んで見たいとも思うけれど、僕も爺さんで目が悪くて、漫画といえど書物を読むのはけっこうしんどくてなぁ。ワシも、もっと若い頃だったらなぁ…。

川崎のぼる自選原画集

荒野の少年イサム 1

男の条件

花も嵐も 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)

雨ニモ負ケズ(1) (モーニングコミックス)

新巨人の星(1) (週刊少年マガジンコミックス)

BLUE GIANT (1) (ビッグコミックススペシャル)

 梶原一騎氏が少年漫画の世界で大ブレイクするのが1966年、週刊少年マガジンで始まった、川崎のぼる氏作画の「巨人の星」が大人気を得てマガジンの看板漫画になってからです。

 僕が少年漫画を読み始めたのが1962年の終わり頃、6歳のときです。少年漫画に熱中するのは63年に入ってから、7歳になってからかなぁ。

 僕が貸本屋に毎日通い、購読も毎月月刊誌2冊、週刊誌1冊は必ず買ってたのは、だいたい7~10歳のとき、小一三学期~小五の初めかな。

 「巨人の星」大ブレイクからの梶原一騎氏の少年漫画界での大躍進は凄まじいもので、60年代後半からは梶原一騎氏は少年漫画原作の帝王の座に君臨してた印象ですね。

 60年代後半にも梶原一騎氏以外にも漫画原作を手掛ける作家さんはいましたが、梶原一騎氏の本数、量は他の漫画原作者とは桁違いでした。勿論、読者人気も。

 70年代に入ると、60年代末から青年コミック誌が何誌も誕生し、小池一夫氏の登場でまた事情が変わって来るのですが。

 60年代前半や50年代末頃も、梶原一騎氏は漫画原作の仕事をしていましたが、60年代前半までの少年漫画シーンでは梶原一騎氏の存在はそこまで目立たなかった。

 その当時の梶原一騎氏はどちらかと言うと、少年誌向けのスポーツ記事の読み物の書き手、という印象の方が強かったですね。

 あくまで僕の印象ですが、60年代前半の少年漫画の原作でよく見てた名前は、久米みのる氏と福本和也氏でした。勿論、他にも漫画原作の仕事をされていた方もいたでしょうけど。

 当時の漫画原作で、福本和也氏の作品で一番有名なのは「ちかいの魔球」と「黒い秘密兵器」です。どちらもプロ野球漫画で少年マガジンの連載作品です。

 久米みのる氏原作の漫画もいっぱいあったけど、久米みのる氏はどちらかと言うとSF系のものが多かったかな。柔道ものなどスポーツものもありましたけどね。

 「ちかいの魔球」はちばてつや氏作画、「黒い秘密兵器」は一峰大二氏作画ですね。

 久米みのる氏も福本和也氏も少年漫画の原作で大活躍してたけど、60年代前半の印象が強いですね。福本和也氏原作の「歌え!! ムスタング」の連載が1968~69年ように、勿論、60年代後半以降も漫画原作の仕事はされてましたけど。

 久米みのる氏の漫画原作は60年代後半以降はあんまり見なくなったなぁ。

 僕自身は漫画原作者としてしか知らなかったんだけども、福本和也氏は本業は小説家だったんですね。それも60年代から90年代まで膨大な作品数を著述した、主に推理小説ジャンルの作家さんだったんですね。こういう言い方は失礼だけどけっこう人気小説家だったようです。無論、僕は小説作品は一編も読んだことはありません。済みません。

 福本和也氏は本業の小説執筆の他に70年代までは漫画原作の仕事もしているようですね。

 福本和也氏は1928年=昭和3年生まれだから手塚治虫先生と同年代か。甲種予科練出身で戦争最末期の兵器-特攻ロケット秋水の乗員訓練を行っていたときに終戦になったそうで、戦後60年代初めに航空免許を取得してパイロットにもなってたらしい。

 パイロット経験があるということで、僕は、ちばてつや氏が少年マガジン誌上で「ちかいの魔球」の連載を終えた後、太平洋戦争の航空戦記漫画「紫電改のタカ」を同誌マガジンで描くんですが、「紫電改のタカ」も「ちかいの魔球」と同じく福本和也氏の原作だろうと思っていたら、「紫電改のタカ」はちばてつや氏オリジナル·ストーリーの漫画作品なんですね。

 ちなみに特攻ロケット秋水ですが、これは終戦間際の日本軍の最終兵器として試作されて、とうとう実戦はなかったロケットエンジンの戦闘機です。

 プロペラ戦闘機ではなくてロケットエンジンの戦闘機ですが、アメリカの、対B-29爆撃機用に開発が進められてたようです。戦争の終局面でも試験飛行で失敗したりでとうとう日の目を見ずに終わったようで。

 太平洋戦争時の日本がロケットエンジンの飛行機開発を行っていたなんて知りませんした。驚きです。

 特攻ロケットというから、体当たり自爆用の航空機かと思ったら、解説文読んでるとそうでもなさそうです。

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