2016年9月26日(月) 7:00-9:25pm サントリー
オール・ショスタコーヴィッチ・プログラム
バレエ組曲≪黄金時代≫ 5′9′3′2′
ピアノ協奏曲第1番ハ短調 6+9+2+6′
ピアノ、ヴィクトリア・ポストニコワ
トランペット、辻本憲一
Int
交響曲第10番ホ短調 28′5′15′15′
ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー 指揮 読売日本交響楽団
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ロジェストヴェンスキー85才、この魔力というか催眠術にみんなかかってしまったのか、あの吹き抜けるような10番シンフォニーの最後の音のあとで、なんとエポックメイキングな長い空白が生じるというヒストリックなものであった。むしろ大いに戸惑ったのは指揮者のほうで、あれ?終わったんだが、なむさん、拍手もないほど、ひどかったか、ははは。とロジェヴェンが思ったかどうかは知らないが、そのような仕草が見えた。
現実は裏腹か、神のみぞ知るといった具合で、圧倒的な降臨演奏、アンビリーバブルな出来事となりました。
前回2009年に見た時よりも全体的に少しスリムになったように見えました。この年齢で身体が重くならないというのは指揮者にとってはいいものと思う。
身振りは指揮芸術の極致といったところ。振りは小さくなったけれども、必要にして十分、すべてのインストゥルメント、アンサンブルの入りを長い指揮棒と左手の動きで表現。それに目、頭の動き、顔の表情、小さな動きに巨大咆哮からピアニシモまで、それに入り組んだパッセージの強弱ニュアンスまで表現するオーケストラのほうももはや圧倒的という言葉しか見つからない。再現芸術の極み、極限技を見ました。
ロジェヴェンはポーディアムを使わず、メンバーと同じ高さ。ひな壇の上にいるブラスセクションなどに指示するのは多少上向きになって、サウンドを全部浴びる気持ちの良いものだろうね。
この前(2016.9.20)のインバルが振った8番のところで書いたように、この10番も3楽章イメージがあります。28,5、30、のバランス感覚。
第1楽章は遅めのインテンポ。読響の正三角形音響バランスは思ったほど重くない。厚みを作るような進行はあまりなくて、一つのメロディーが冴え冴えと次々に楽器を変えながら進行していく。楽器群の特色がよく出ている、圧力あるベース、ふくらみのあるチェロ、ウエットな潤いのヴィオラ、そしてなでるようなヴァイオリン。混沌としたパッセージが続くウィンドは聴く方に手がかりを与えてくれるいいバランス。ブラスセクションの味わいもダイナミックさからピアニシモまで味わい深い。パーカスの強打には飛びますね。
第2主題への移り変わりは殊の外、明瞭なもので、カオスの水源のような第1楽章ではありますが、相応なメリハリはある。一時も弛緩しないプレイヤーの緊張感が素晴らしい。ロジェヴェンの一挙手一投足を見逃すまいと、この神経集中力の素晴らしさ。聴衆もこのなかに組み込まれていく。聴き手が受け身という感覚はもはや無くて、積極的なのめり込み状態。
自分の感覚では8番の第1楽章と双璧かそれ以上に名状し難いわからなさをもった10番の第1楽章なのですが、この一本音型での進行はパッセージ単位での音色旋律風味があるなぁとは思います。この楽章を持ちこたえて聴くのは普段なら少し努力が要るが、今日のロジェヴェン、読響の演奏ならそんなことは忘れさせてくれました。この楽章のソナタ形式バランスは完ぺきなものかもしれないと。
第2楽章は、1楽章、3+4楽章の転換点となるもの。点であれば短くて凝縮されればされるほど束ね効果がでる。前楽章の広がりをここで絞って後半楽章でまた広がりを作る。
ロジェヴェンはここでも概ねスローなインテンポ、これは最後まで変わらないので、相対的な話になるかもしれませんね。上から蓋をするような音型と滑るようなウィンド。荒れ狂うリズムにも先走りしないプレイは見事で、離れ業の妙味堪能。
第3楽章は前楽章のスケルツォの音型を引き継ぐことから始まるので、ブルックナーの5番、2,3楽章の進行とよく似ている。1,2+3,4楽章の感覚があるのですが、ロジェヴェンは2楽章のあと完全ポーズをとりますので、ここはやっぱり、1,2,3+4楽章の味わいかと思いました。(4楽章へアタッカでは入りません、ここでもたっぷりポーズをとりますので、あくまでも構成感の話です)
この楽章の後半は気がつくと終楽章の序奏モードになっていて聴き手のほうは意識下の出来事が次々と進んでいるような気になってくるのかもしれない。味わいで言ったら終楽章よりもこの第3楽章かな。
終楽章は序奏の長さほど主題の圧力は感じないもので、ウエットな潤いと軽快な遅めのインテンポが綯い交ぜになったもの。派手なものは一切なくて、むしろ淡々としている。枯れた芸風と言えるかもしれない。彼でなかったら出来そうもない技ですね。まぁ、ベニヤ板が上にしなっていくような具合で、しなり尽くしたところで、ブラスの裏打ちが極限に達したところで、元に戻りめくれるようにフィニッシュ。唖然茫然の聴衆は催眠術からしばらく目が覚めず、拍手ができない。10番のフィニッシュでフラハクもフラブラも、まして普通の拍手も来ないというエンディングには遭遇したこともない。それほど覚醒までに時間のかかった、これぞ至芸、あえて至芸の極致と呼びたいもの。言葉の本来の意味で空前絶後ですな。とんでもねぇ演奏。
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前半プロ。黄金時代。えも言われぬテンポで一歩一歩進む。真面目な皮肉なのか。
自発的コントロールが効いたオーケストラのプレイは味わい深く、お見事。ショスタコーヴィッチをもっと聴きたい、と思わせる。(このあと2曲ショスタコーヴィッチであったわけですが)
ポストニコワとロジェヴェンの一体感は当たり前すぎる話なのかもしれないが、息が合い過ぎていて気持ちよすぎる。
ポストニコワのピアノはショスタコーヴィッチのオーソリティなのでしょう。慣れたものだがツボははずさない。非常にきれいな音でびっくり。後ろから見ていると、高音、バスと右左腕が大きく離れるところもある曲で難しそう。腕が広がったところでも右左の押しのバランスがよくて、余計な力を抜きつつもコントロールされた筋肉を感じる。緩徐フレーズでも隙間がなくてウエットな響きを堪能。雰囲気ですね。それが絶妙。
ピアノのすぐ左に陣取ったトランペットとの掛け合いも絶品で、終楽章ではポストニコワが顔でも掛け合いをしている。トランペットさんはふき出してはいけない、商売にならない、ひたすら吹かなければならない。というシーンまで楽しめました。
ポストニコワのウエットなピアノサウンド、それから一転、軽妙なアンサンブルの妙。楽しめた。ショスタコーヴィッチが演奏していたらこうなったかもしれない。
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ということで、プログラム3曲。2時間半に迫る演奏会でしたが、ロジェストヴェンスキーはずーっと立ったままで振りぬきました。太らずにすんでいるせいもあるかと思います。健康は大事です。いくら才能があっても身体が動かなければ宝の持ち腐れ的な職業ですし、そうなっていないロジェヴェンには敬意を表したいですね。それに極小の動きで全てを表現している至芸は長年振ってきた経験の積み重ねが大いにあると思います。もちろん、才能のほうを強く感じますけれども。まぁ、生まれながらの天才棒。
これで終わりとせず、また来てほしいです。オケは読響以外は考えられないでしょうから、読響が演奏しにモスクワまで行くというのはどうでしょうか。
おわり