コリン・デイヴィスは基本的にオペラ指揮者のはずだ。ショルティのあとのコヴェント・ガーデンを仕切ってきた。なのに日本では誰もオペラ指揮者だとは思っていないと思う。
オペラ指揮者というのは、普通のオケの演奏会というのは簡単でしょうがないはずだ。オペラのように全神経をいたるところ放射し続けなければならない舞台芸術と異なり、オケだけに神経を放射し続けるだけでよい。古典・ロマン・近代・現代、となんであれオペラの修羅場人間にとっては軽いもの。どうってことはない。
それでも、真の解釈・感動に行き着きたければ、そのような安易なスタンスではやはりだめ。深堀ができないとちょっとませた聴衆にはすぐにそのヴェールの薄さがわかってしまうもの。それも事実。
バイエルン放送交響楽団はクーべリックの印象が強すぎてなかなか抜けない。ヘラクレス・ザールでの名演の数々。サウンドの素晴らしさ。DGのメタリックながらどす黒い見事な音色録音の数々。クーべリックとバイエルン、そしてクーべリックとベルリン・フィルのこれまた名演の数々。二つのオケを振り分けたクーべリックのDGコレクションはいまだに光を失っていない。
バイエルンはひところベルリン・フィルと並び称されたこともあったが、金管が少し弱い、というのがもっぱらの世評であった記憶がある。ベルリン・フィル自体、アメリカのオケなどに比べると金管は決してうまいとは言えない。不安定要素があった。
だからかどうか、こちらがその印象で聴いているからか、バイエルンの金管は、いま二つ自信なげに聴こえたものだ。
それはそれとして、この組み合わせ。マッチしているのか、アンマッチなのかよくわからないまま時は過ぎた。そして、1988年の来日公演は11回公演。初日の公演はこんな感じ。
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1988年5月13日(金)19:00上野
シュトラウス/ドン・ファン
ハイドン/交響曲第99番
ベートーヴェン/交響曲第5番
(アンコール)
ワーグナー/マイスタージンガー、前奏曲
ブラームス/ハンガリアン舞曲
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ルーチン・ワークである。でもルーチン・ワークこそ尺度。
限りなくオーソドックスな指揮姿。そしてサウンド。
奇をてらわない、曲と対峙した棒である。不眠症の人が、覚悟を決めて仰向けに、深夜と対峙して眠りにつく覚悟。その姿に似てなくもない。なんであれ一度は真正面から取り組んでみなければ中身は見えてこないもの。
そんな気持ちにさせてくれる演奏会であった。
コリン・デイヴィスは背中だけ見ている我々にとってはそんなに華のある指揮とは思えない。オーバー・アクションに感動も釣られてしまうことがたまにあるが、彼はそのような現象の対極の人間。紳士然とした棒である。
オケにとって彼の棒はどうだろう。それは我々聴衆がオケから出てくるサウンドから判断するしかない。
コリン・デイヴィスのあと、つい3年前まで10年間もロリン・マゼールがシェフであった。なんてもう既に忘れかかっている。デイヴィス時代のバイエルン・サウンドをあらためて聴きたくなった。ミュンヘンでバス・ビールなんてよかったかも。