河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

2020- ショスタコーヴィッチ15番、ジョナサン・ノット、東響、2015.11.22

2015-11-22 20:59:41 | コンサート・オペラ

2015年11月22日(日) 2:00pm サントリー

リゲティ ポエム・サンフォニック、100台のメトロノームのための
(作動時間40′、1:30-2:10pm)
+連続演奏

バッハ(ストコフスキー編曲) 甘き死よ来たれBWV478  6′

+連続演奏

シュトラウス ブルレスケニ短調 20′
  ピアノ、エマニュエル・アックス
(enocre)
ショパン ワルツ第3番 op.34-2   5′

Int

ショスタコーヴィッチ 交響曲第15番イ長調  9′、16′+4′、17′

ジョナサン・ノット 指揮 東京交響楽団


大変に興味深い演奏会でした。
リゲティの曲はマシンに演奏させるもので、開場時に既にスタートしていて、マシンの物理的停止をもって曲を終わる。マシンなのにいつ終わるかは正確にはわからないという不確定なことを逆手に取ったもの。その不確定部分が音楽作品であるということのオンリー要素になっている。マシンへのこのゆだね方は姑息とは言わないがマシン任せ、マシンの勝手、マシンのねじの締め具合で100台のマシンが散り散りバラバラに早く終わったり長く動いているものやら、いずれにしてもだんだんと動いているマシンは少なくなるのでその分だけ響きやリズムが少しずつ変化縮小していく。減衰のマシン音の音響音楽。音楽としては頭の中で響いているだけかもしれず、作曲家はそれを狙ったのかもしれない。マシンとはメトロノーム。
この減衰音響は後半のショスタコーヴィッチの15番のクロージングの締め方に対を成すものではなくて、音響面での親近性の並列化と言えるもので、マシンはデジャビュなのかもしれないとあとで思えるようなかすかな思い出、弱音によるパーカッション饗宴エンディングで思い起こされる。面白い趣向のプログラム・ビルディングで、この指揮者ならではと言えるものだろう。

2時の演奏会開始とともにホールのドアはクローズされるがメトロノーム音はその30分以上前から動作している。そしてマシンの最後の音が終わるまで2時からさらに10分ほど。それが終わったところを見計らい、これ以上甘いメロディーはこの世に存在しないのではないかと思えるようなストコフスキー編曲によるメロディアスでメロウそしてメランコリックで耳触りの良いバッハが始まる。メトロノームマシンとは天と地の違いながらこのシームレスな演奏はものすごく親近性を感じさせずにはおかないものでその強烈な説得力に音楽という毒の中に否が応でも引きずり込まれずにはいられない。リゲティとバッハをノットの手腕がつなぎ合わせた。音の印象が音楽の印象となりました。
このバッハの演奏はそれ単体でも印象深いものでしばらく忘れられないものだ。オーマンディ&フィラ管のバッハ・トランスクリプションのようなハイテンションで魅力的な演奏となりました。この演奏の見事な息の長さは指揮者とオケの蜜月のあかしのようなものだ。

以上、リゲティとバッハでは舞台の照明を薄暗く落としていて、バッハがクローズする少し前にアックスがピアノに歩み寄りブルレスケが始まったところでステージの照明は通常の明るさを取り戻す。見事な演出コントロールはメトロノームの不確定さとコントラストを成す。

ピアノを弾くアックスの腕を見ているとあまり右腕左腕が大きく離れない。なんだか狭い音域で奏でられている曲のような気がする。小さいものに愛着を感じてやまないような曲で演奏もそれを同一ベクトルにうまく反映されている。非常に歯切れの良いプレイでメゾフィルティからメゾピアノあたりの音域でくるんくるんと軽快に動き回る。まぁ、はっと気がつくとタイトル通りの見事さだなぁと思ってしまいますね。さっきまでの緊張感がこの軽妙な曲とプレイで気持ちよく弛緩していく。お見事ですね。
演奏後の自分主役風なアックスの振る舞いはほめられたものではないのでその分残念ながら気分がそがれ減点、せっかくの良好な雰囲気が台無しとまではいかなくても、あまり見栄えのいいものではない。若いときはこんなことをしなかったので歳のせいかもしれないけれど、リゲティからの一連のストリームを止めるようなものでよくありませんでした。
珠玉のようなアンコールで相殺帳消しにしようとしたのかその見事さには納得しますが、一度表に現れたものは消えないのです。見事なノットのプロダクションに水を差しました。


前半最初の2曲の美音弱音系のノットの世界観は、2011年にN響でショスタコーヴィッチの15番を振った時の猛速でほこりっぽい演奏とはかけ離れたもので、例えば第2楽章のむき出しのトロンボーンソロのナイーブでデリケートで弱音方向に指向を感じさせる吹奏等にも端的に表現されている。弦の張りつめた薄い膜のようなサウンド、黄色い東響独特の響きの統率感も素晴らしい。
メトロノーム音から派生した抑制がこのショスタコーヴィッチ演奏へのメルクマールとなる、水面下で演奏しているようなモノローグ的弱音美の世界。

第1楽章、ウイリアムテルは全く出しゃばらないのもので、小さい泡立ちのようにトランペットが吹かれる。この曲はノットの中では既にレパートリーとして定着しきっている。譜面を見てはいるが、棒の指示は全てのパートに的確にされていてそれが全くぎこちなさを感じさせずむしろ慣れた自在さを感じさせてくれる。最後の一音のコントロールされた余裕のエンディング、お見事。
第2楽章のチェロは骨太で、このむき出し音のソロはトロンボーンまで引き合いに出されるわけですが、音楽は終始、静止している。複数のパートが大きく重なるのを意識して避けているのはもはや自明で、フレーズが進むにつれて全体が減衰していく。張りつめた弦、透明で明晰なものは見えなければわからない。東響の色合いが一本の糸のようにガラスの上をなぞっていく。慎重にバランスされたアンサンブル・ハーモニーの美しさと緊張感、ひき込まれました。ここまでくるとさすがに第14番までの交響曲とは100歩違うと誰でも感じないわけにはいかないであろう。
バスーンに促されてアタッカではいる第3楽章、唯一この作曲家独特な諧謔的な音楽の場。この小さなオアシスはあっという間にジークフリートの場に変容、それは死という話しで、第4楽章の頭はその動機。この曲は引用の山だったとあらためて感じる瞬間でもありますね。
ヴァイオリンによるしだれ柳のような美しいフレーズは神経細胞を直接見ているような死の淵のデリカシーを覗き見る具合で、美しさと恐さが二律背反的に存在する。恐いもの見たさもここまでくるとその美しさに我を忘れる。ショスタコーヴィッチの世界が極まる。
張りつめた弦の長い長いトーンが4番のエンディング・エコーのように響く中、壮大なピアニシモ・パーカッションの饗宴でクローズ。もう、ノットは、ショスタコーヴィッチは自然界の現象であって、この滑らかな演奏こそ最高の音楽表現、これしかないと、言ってます。
素晴らしすぎるものでした。
ふと最初のリゲティが脳裏をかすめます、なんのデジャビュだったのか、いろいろと考えさせられました。
満足しました。ありがとうございました。
おわり


以下、2011年N響を振った時の感想

ジョナサン・ノット、N響 ショスタコーヴィッチ第15番
2011.2.16
2011.2.17