『礼運注』(『礼記』「礼運篇」の注釈)で、康はやたらに「公理」という言葉を使っているらしい。たとえば「天下為公、選賢与能」を「君臣の公理」、「講信修睦」は「朋友信ありの公理」、「故人不獨親其親,不獨子其子,使老有所終,壯有所用,幼有所長,矜寡孤獨廢疾者,皆有所養」は「父子の公理」、「男有分,女有歸」を「夫婦の公理」と。そのことを教えられた。
原文:
昔者仲尼與於蠟賓,事畢,出游於觀之上,喟然而嘆。仲尼之嘆,蓋嘆魯也。言偃在側曰:「君子何嘆?」孔子曰:「大道之行也,與三代之英,丘未之逮也,而有志焉。」大道之行也,天下為公。選賢與能,講信修睦,故人不獨親其親,不獨子其子,使老有所終,壯有所用,幼有所長,矜寡孤獨廢疾者,皆有所養。男有分,女有歸。貨惡其棄於地也,不必藏於己;力惡其不出於身也,不必為己。是故謀閉而不興,盜竊亂賊而不作,故外戶而不閉,是謂大同。 (『中國哲學書電子化計劃』『禮記』《禮運》より)
ちなみに、「礼運篇」のこの箇所は「大同」の語の出典である。価値判断に基づく道徳原則を公理axiomと呼ぶのは一見奇妙だが、ここから発展した『大同書』において彼が「理」を「論理」と「倫理(とくに儒教的な)」を混在させた意味で使っていることを考えれば、不思議と言うのは当たらない。
そもそも大地の文明というものは、実に人類が自分で開いたおかげだ。もし人類がすこしでも減れば、その聡明さも同時に減少して、ふたたび野蛮になるだろう。まして、男女の交わりを禁じて人類の種を絶つということなら、なおのことだ。もし、仏教の道に従うなら、大地十五億の繁栄せる人類は、五十年足らずで完全に絶滅しよう。百年後には、大地の繁盛していた都会、壮麗な宮殿、鉄道・電線の交通手段、精奇な器具はみな廃棄壊滅し、草木がぼうぼうと繁茂するようになる。そして全地はまったく、灌木や森林が茂り、鳥獣や昆虫が縦横にとびかうだけになる。こういうことは、行ってはならない事であるだけでなく、そのようにする道理はぜったいにないのである〔是れ独り行ふべからざる事のみならず、亦た必ずこれが理なし〕。 (坂出祥伸『大同書』明徳出版社、1976年11月、「己部 家界を去って天民となる」同書155頁より。下線は引用者、〔〕内は引用者による補足)
(汲古書院 2008年1月)
原文:
昔者仲尼與於蠟賓,事畢,出游於觀之上,喟然而嘆。仲尼之嘆,蓋嘆魯也。言偃在側曰:「君子何嘆?」孔子曰:「大道之行也,與三代之英,丘未之逮也,而有志焉。」大道之行也,天下為公。選賢與能,講信修睦,故人不獨親其親,不獨子其子,使老有所終,壯有所用,幼有所長,矜寡孤獨廢疾者,皆有所養。男有分,女有歸。貨惡其棄於地也,不必藏於己;力惡其不出於身也,不必為己。是故謀閉而不興,盜竊亂賊而不作,故外戶而不閉,是謂大同。 (『中國哲學書電子化計劃』『禮記』《禮運》より)
ちなみに、「礼運篇」のこの箇所は「大同」の語の出典である。価値判断に基づく道徳原則を公理axiomと呼ぶのは一見奇妙だが、ここから発展した『大同書』において彼が「理」を「論理」と「倫理(とくに儒教的な)」を混在させた意味で使っていることを考えれば、不思議と言うのは当たらない。
そもそも大地の文明というものは、実に人類が自分で開いたおかげだ。もし人類がすこしでも減れば、その聡明さも同時に減少して、ふたたび野蛮になるだろう。まして、男女の交わりを禁じて人類の種を絶つということなら、なおのことだ。もし、仏教の道に従うなら、大地十五億の繁栄せる人類は、五十年足らずで完全に絶滅しよう。百年後には、大地の繁盛していた都会、壮麗な宮殿、鉄道・電線の交通手段、精奇な器具はみな廃棄壊滅し、草木がぼうぼうと繁茂するようになる。そして全地はまったく、灌木や森林が茂り、鳥獣や昆虫が縦横にとびかうだけになる。こういうことは、行ってはならない事であるだけでなく、そのようにする道理はぜったいにないのである〔是れ独り行ふべからざる事のみならず、亦た必ずこれが理なし〕。 (坂出祥伸『大同書』明徳出版社、1976年11月、「己部 家界を去って天民となる」同書155頁より。下線は引用者、〔〕内は引用者による補足)
(汲古書院 2008年1月)