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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

竹内弘行 『康有為と近代大同思想の研究』

2013年10月16日 | 東洋史
 『礼運注』(『礼記』「礼運篇」の注釈)で、康はやたらに「公理」という言葉を使っているらしい。たとえば「天下為公、選賢与能」を「君臣の公理」、「講信修睦」は「朋友信ありの公理」、「故人不獨親其親,不獨子其子,使老有所終,壯有所用,幼有所長,矜寡孤獨廢疾者,皆有所養」は「父子の公理」、「男有分,女有歸」を「夫婦の公理」と。そのことを教えられた。

 原文:
 昔者仲尼與於蠟賓,事畢,出游於觀之上,喟然而嘆。仲尼之嘆,蓋嘆魯也。言偃在側曰:「君子何嘆?」孔子曰:「大道之行也,與三代之英,丘未之逮也,而有志焉。」大道之行也,天下為公。選賢與能,講信修睦,故人不獨親其親,不獨子其子,使老有所終,壯有所用,幼有所長,矜寡孤獨廢疾者,皆有所養。男有分,女有歸。貨惡其棄於地也,不必藏於己;力惡其不出於身也,不必為己。是故謀閉而不興,盜竊亂賊而不作,故外戶而不閉,是謂大同。 (『中國哲學書電子化計劃』『禮記』《禮運》より)

 ちなみに、「礼運篇」のこの箇所は「大同」の語の出典である。価値判断に基づく道徳原則を公理axiomと呼ぶのは一見奇妙だが、ここから発展した『大同書』において彼が「理」を「論理」と「倫理(とくに儒教的な)」を混在させた意味で使っていることを考えれば、不思議と言うのは当たらない。

 そもそも大地の文明というものは、実に人類が自分で開いたおかげだ。もし人類がすこしでも減れば、その聡明さも同時に減少して、ふたたび野蛮になるだろう。まして、男女の交わりを禁じて人類の種を絶つということなら、なおのことだ。もし、仏教の道に従うなら、大地十五億の繁栄せる人類は、五十年足らずで完全に絶滅しよう。百年後には、大地の繁盛していた都会、壮麗な宮殿、鉄道・電線の交通手段、精奇な器具はみな廃棄壊滅し、草木がぼうぼうと繁茂するようになる。そして全地はまったく、灌木や森林が茂り、鳥獣や昆虫が縦横にとびかうだけになる。こういうことは、行ってはならない事であるだけでなく、そのようにする道理はぜったいにないのである〔是れ独り行ふべからざる事のみならず、亦た必ずこれが理なし〕。 (坂出祥伸『大同書』明徳出版社、1976年11月、「己部 家界を去って天民となる」同書155頁より。下線は引用者、〔〕内は引用者による補足)

(汲古書院 2008年1月)

田中秀夫 『近代社会とは何か ケンブリッジ学派とスコットランド啓蒙』

2013年10月10日 | 社会科学
 著者は言う。近代社会とは、“個人主義、自由主義、被治者の同意による統治、すなわち議会政治、国民の安寧のために存在するものとしての国家、三権分立、司法権の独立、物質的な豊かさ、寛容、職業選択の自由、思想信条の自由、言論出版の自由、結社の自由など、基本的人権の保障。こういった条項を実現するものが近代社会である”(「はじめに」vii-viii頁)。
 そして著者は続けて、“そのような条件についてのほぼ十分な認識はスコットランド啓蒙がもたらしたと述べて過言ではない”(viii頁)とし、スコットランド啓蒙は“近代思想の「総合」を成し遂げた”のであり、それは“「自然法と共和主義とポリティカル・エコノミーの総合」としての「道徳=社会哲学」”である(viii頁)と要約する。

(京都大学学術出版会 2013年7月)

湯志鈞 『康有為伝』

2013年10月10日 | 伝記
 著者によれば、『実理公法全書』の頃の康有為が言う「公理」が指していたものは、「仏教・西洋科学・陸王の学」のそれであり、当時はまだ今文学の意味が入ってきていない(「第一章 學習西方」本書11頁)。ただし康は、西洋の社会科学のことを、自然科学の成果を取り込んでその上に成り立つ、自然科学以上の科学だと思っていた(同、14頁)。
 著者は、康は最後まで立憲君主制を唱えていたのは確かだが、後年には君主制への執着からそれを唱えるようになっていたから思想的に首尾一貫していたとはいえない、しかし反動というのもあたらない、ただ彼は革命と共和制を志向する時代に乗り越えられてしまっただけだとする。

(台灣商務印書館 1997年12月初版 1998年10月初版第2次印刷)

章炳麟 「駁康有為論革命書」(1903年)

2013年10月08日 | 東洋史
 章炳麟は、この文章のなかで四箇所、「公理」という言葉を使っている。先ず西順蔵氏による訳を挙げる。

 ① 康先生も、「大同」の公理は今日ただちに全面実現されるべきものでない、とおっしゃっている。 (西順蔵訳「康有為を反駁して革命を論ずる書簡」『清末民国初政治評論集』平凡社1971年8月、同書287頁。下線は引用者、以下同じ)

 まず①だが、このくだりは、原文(『維基文庫』「駁康有為論革命書」)に当たってみると、「長素固言大同公理非今日即可全行。」とあって、これは康有為の言葉をそのまま借りた表現であることが解る。もとは間接話法だが、ことさら直接話法にして訳せば、「長素(康有為の号)は『大同の公理はこんにちすぐさま行えるものではない』と言う」ということだ。
 ②③④は、一つの段落の中で使われている。

 ②③④康先生のお考えでは、今日の中国の人には公理がわかっていないし、ふるい風習も残っている。革命しても必ずや戦乱相ついで、わずかの安定を求める余裕もないだろう。変法して人民を救い、内政を整えるどころではあるまい、というのである。いったい公理がわからず、ふるい風習の残っている人民は、革命は不可で立憲こそ可であるとは、そもそも何のことか。〔中略〕公理がわかっていないものも革命によってわかるのであり、ふるい風習の残っているものも革命によって除去できるのだ。(同、294頁)

(原文)長素以為中國今日之人心,公理未明,舊俗俱在,革命以後,必將日尋干戈,偷生不暇,何能變法救民,整頓內治。夫公理未明、舊俗俱在之民,不可革命而獨可立憲,此又何也?〔中略〕然則公理之未明,即以革命明之;舊俗之俱在,即以革命去之。(『維基文庫』「駁康有為論革命書」より)

 ②③④についても同じである。章は康有為の口吻をそのまま用いているのである(康有為は、「公理」という言葉がひどく好きで、「人類平等は幾何の公理である」という発言まであった。『実利公法全書』「総論人類門」)。西順蔵氏の訳によって明らかではあるが、原文を見ると、それが一層はっきりする。康有為の「公理」は、伝統的な意味の「道理」ではなく、いま挙げた言葉で明らかなように、axiom・幾何の公理であり、言い換えれば証明不要の前提、もしくは真実という意味なのであるが、康の場合、そこに(とくに後年になると)社会進化論の証明されざる理論が忍び込んでしまっているところに、今日から見た彼の思想の問題点がある。章も、この文章で、康の言う「公理」について、昔ながらの道理および社会進化論=真実としては認めつつ、ただしその真実実現に至る手続きと取る手段において拒否・否定しているのである。章がいささか嘲弄の気味さえ感じさせる引用の形式をわざわざとったのは、この差異――立憲君主制か革命して一気に民主共和制か――を際立たせるためであろう。

梁啓超 「論君政民政相嬗之理」(1897年10月6日)

2013年10月08日 | 東洋史
 大地のあらゆる事物はみな単純から複雑へ、素樸から文明へ、悪から善へと進化し、地質学でいう各層の岩石と同じように、一定の段階、一定の時期があって、その順序を乱すことはできない。中国は多君の世であるのに、国家はすでに民主政治が行われているとか、すでに民主政治が行われているのに突然君主政治にもどるとかいうことは、公理に合っていない。幾何学に通じたものならきっとこの道理がわかるだろう。 (伊東昭雄訳、西順蔵編『原典中国近代思想史』第二冊、岩波書店1977年4月、「君主政治より民主政治への推移の道理について」、同書203頁。下線は引用者、以下同じ)

 原文。
 大地之事事物物,皆由簡而進于繁,由質而進于文,由惡而進于善,有定一之等,有定一之時,如地質學各層之石,其位次不能凌亂也。今謂當中土多君之世,而國已有民政,既有民政,而旋复退而為君政,此于公理不順,明于几何之學者,必能辨之。 (『維基文庫』「論君政民政相嬗之理」)

 最後部の「此于公理不順,明于几何之學者,必能辨之」にあるこの公理は、みなが納得する道理(=公道)という伝統的な意味ではなく(注1)、証明不要の公理、すなわち梁啓超本人がそのすぐ後で念を押すように名を出している幾何学の公理である。

 注1。例えば晋の陳寿『三国志』巻57「呉書 張温伝」。“競言〔暨〕艷及選曹郎徐彪,專用私情,愛憎不由公理。” 清の姚鼐 『礼箋序』。“经之説有不得悉穷。古人不能无待於今,今人亦不能无待於后世。此万世公理也。”

 この新しい意味における「公理」は、ひょっとして日本からの輸入語かと思ったが、どうもそうではないらしい(注2)。

 注2。大原信一「中国語にはいった日本語」(『東洋研究』82、1987年2月、81-101頁)に、1949年以後の現代中国で出版されている外来語辞典および研究のなかから日本語来源の借用語と認定されている語彙を摘出してアイウエオ順に並べた表が載せられているが、そこには見えない。

 しかし、いつからこの意味で「公理」が使われ出したのか、いまつまびらかにしない。手持ちの諸橋轍次『大漢和辞典』には用例がなく、1979年度版『辞海』も同じである。徐光啓/マテオ・リッチ『幾何原本』(1607年刊)では、公理は「公論」と訳されている(巻二)。

鐘叔河 『走向世界 中国人考察西方的歴史』

2013年10月07日 | 東洋史
 明末16世紀半ば頃から清初康煕帝によるキリスト教布教禁止までの、西洋からの中国へ流入した知識と考え方が、中国の知識人・官僚の何人かに重大な影響を与え、明末には思想解放・啓蒙運動とも見なすべき現象が起こっており、これが後に戴震・龔自珍・魏源らのために地ならしとなった(开风气)と書いてある(「第二章 自西徂东」「十七世纪的梦想」31頁)。つまり中国の啓蒙思想は、唯物史観における必要から措定された地生えのものではなく、外来思想の影響のもとに興ったと認めているわけで、これはこれまでの通説を破った意見である。→参考また
 「地ならしとなる」(开风气)という言葉遣いが曖昧で具体的にどういうことを指しているのかよくわからないが、それにしても戴震はまだ良いにしても龔自珍や魏源まで入れていることはすこし驚きである。→参考
 康煕帝のキリスト教布教禁止は1723年、戴震の生まれたのはその翌年(1777年没)だが、彼は考証学者であると同時に天文学者でもあって、後者において、漢語訳された西洋のそれを学んでいる。彼の著書『続天文略』を観ればそれは明らかだ。
 しかし龔自珍(1792年-1841年)や魏源(1794年-1856年)になると半世紀以上後の乾隆末年生まれで、活躍しはじめるのは次の嘉慶年間の終わりかさらにその次の道光年間になる。間が開きすぎてはいないか。そして彼らは戴震とはちがって西洋の学問の影響の残っていた自然科学系の学問はやっていない。二人とも公羊学者である。
 
(北京 中華書局 2010年2月)

松森正作画 ひじかた憂峰原作 『湯けむりスナイパー PART Ⅲ』 3 (完結巻)

2013年10月06日 | コミック
 あからさまには書かれないが、東北地方太平洋沖地震と福島第一原子力発電所事故が、モチーフと背景になっている。ウィキペディアの記載によれば掲載誌の廃刊で終了となったらしいが、作品世界も、これまでの伏線をほぼ全て回収して、完結している。始まってすぐに生まれた君江の娘の杏子が、中学2年(14歳)になっているのを見て、作品世界も現実と同じ年数を重ねていたのだと知る。

(実業之日本社 2013年9月)

池田信夫 『池田信夫blog』 「民主政と共和政」2013年10月06日10:39

2013年10月06日 | 抜き書き
(引用開始)

このように法の支配が徹底しているのが、アメリカの特徴だ。ナチに追われてアメリカに亡命したアーレントは、そこに大陸とは対照的な政治体制を見出した。フランス革命では、ルソーの「一般意志」が法に優越する主権者とされ、絶対君主の座に国民を置き換えようとしたのに対して、合衆国憲法には主権という言葉が出てこない。最高の権威をもつのは法であり、それを超える主権者はいないのだ。

彼らが権力の中心は人民にあるというローマ的な原理に忠実であったというとき、彼らは、それを一つの虚構や絶対者としてではなく、その権力が法によって行使され、法によって制限されている組織された集団という現実に動いている形で考えていたのである。共和政を民主政と区別するアメリカの革命的主張は、法と権力の根本的な分離に、そして両者の起源や正統化や適用範囲の違いに対するはっきりとした認識にもとづいている。(本書p.257、強調は引用者)

アーレントは、このように超越的な主体を排除し、非人格的な法の支配を徹底する共和政が、アメリカ革命を成功させた原因だとした。フランス革命が人々を圧政から解放して「自然権」としてのlibertyを取り戻すことを理想としたのに対して、最初の合衆国憲法には「人権」も「平等」も出てこない。そこではfreedomは人為的な法秩序であり、いかなる意味でも自然な権利ではないのだ。

日本は天皇制という特殊な制度をとっているためにこの点が見えにくいが、立憲君主政も法が君主に優越するする制度であり、アーレントもいうように近代国家の本質は民主政ではなく共和政にある。

(引用終わり)