われわれ中国人がつねに言う「たがいに反しながら、たがいに成りたたせあう」とは、たがいに反するものが同一性を持っているという意味である。この言葉は、形而上学とは反対の、弁証法的なものである。「たがいに反する」とは、矛盾する二つの側面が相互に排斥し、あるいは相互に闘争することを言う。「たがいに成りたたせあう」とは、矛盾する二つの側而が、一定の条件のもとで、相互に連結して同一性を獲得することを言う。闘争性は同一性のなかにやどっており、闘争性がなければ、同一性はない。(日本共産党中央委員会毛沢東選集翻訳委員会訳『毛沢東選集 第一巻』日本共産党出版部、1965年、421~472頁。「五 矛盾の諸側面の同一性と闘争 (2)矛盾の諸側面の闘争性」から)
「たがいに反しながら、たがいに成りたたせあう(相反相成)」は、『漢書』巻三十「藝文志」にある「相反而皆相成也(あい反して而してあい成さしむる也)」が出典である(「諸子十家」のくだり)。しかしその意味は、毛沢東が言うような、「たがいに反するものが同一性を持っている」ではない。「互いに相反する存在だが、相反するがゆえに、互いに相手が己の存在を可能にしている」という意味である。現代語でのそれも同じである。毛沢東は知ってか知らずか論旨のために語意を歪めて使っている。(オンライン辞書のなかにはいま私が言った意味のほかに「たがいに反するものが同一性を持っていること」という語義を足してあるものがあるが、これは「矛盾論」からの逆輸入ではないか。)
「たがいに反しながら、たがいに成りたたせあう(相反相成)」は、『漢書』巻三十「藝文志」にある「相反而皆相成也(あい反して而してあい成さしむる也)」が出典である(「諸子十家」のくだり)。しかしその意味は、毛沢東が言うような、「たがいに反するものが同一性を持っている」ではない。「互いに相反する存在だが、相反するがゆえに、互いに相手が己の存在を可能にしている」という意味である。現代語でのそれも同じである。毛沢東は知ってか知らずか論旨のために語意を歪めて使っている。(オンライン辞書のなかにはいま私が言った意味のほかに「たがいに反するものが同一性を持っていること」という語義を足してあるものがあるが、これは「矛盾論」からの逆輸入ではないか。)