冒頭の「出版説明」で朱舜水(諱之瑜。舜水は号)のいわば“偉さ”の理由について、三つを挙げている。
1. 「朱之瑜是明清之際出生於地主家庭的進歩思想家」(本書2頁)
2. 「経世致用的思想」 (同上)
3. 「中日文化交流之中做出」的「貢献」 (同上)
つまり、
1. 地主出身だが進歩的な思想を抱いていたから。
2. 世の中の役に立つ実用的な思想の持ち主だったから。
3. 中国と日本の文化的な交流において貢献を為したから。
1については、よく解らない。意味があまりない発言とも思える。
2については、「答野節問」(上巻、386-387頁)で窺える。空理空論ではなく、実際の現実の問題に即して事を論じるといった風である(注)。そして日々の生活や職務における、あるいはその必要に基づいた教えの実践・適用を重視する。(ちなみにこの「出版説明」ではさほど重視されていないが、日本に来る前の彼は、明復興の大義を掲げて諸方に奔走する志士・活動家だった事実も忘れてはならないだろう。)
注。「巻十一 問答三 答野節問」の一節。
太守以臨民為業,以平治為功,若欲窮盡事事物物之理,而後致知以治国平天下,則人壽幾何,河清難矣。故不若随時格物致知,猶為近之。至若「居敬」工夫,是君子一生本等,何時何時,可以少得?僕謂治民之官與経生大異,有一分好處,則民受一分之惠,而朝廷享其功,不專在理学研窮也。晦翁先生〔朱子〕以陳同甫〔陳亮〕為異端,恐不免過當。 (386頁)
3については、これは2とも関連するのだが、水戸藩で水戸光圀の主として学問的な顧問もしくは師父となり、『大日本史』編纂その他の文化的な政策・事業に直接・間接に関与しつつ自身の儒学(朱子学)を体系的にその地に移植したこと、その結果創められた水戸学が江戸時代を通じて、また幕末ひいては明治後の日本においても、多大の思想的影響を行使したことを意味していることは、言うまでもない。それは確かに日中の文化的な交流における貢献であろう。
(北京 中華書局 1981年)