朝鮮へ王陽明の著作は王の存命中(1521年)すでに伝わっていたが、体系的な陽明学として成立するのは17世紀後半の由(朱子学者
鄭斉斗の転向)。その間100年以上の懸隔があるものの、ベトナムに陽明学が入ったのが19世紀後半であることを考えれば、やはり早い伝播だと言っていいだろう。
朝鮮陽明学の思想的な系譜は、後の実学に一部繋がっている。「心即理」(=理気二元論の否定、気一元論)と「知行合一」(=実行・実用に即した知のありかたを唱える)陽明学は、たしかに実学と結びつきやすいと思える。あるいはその思想的な基礎――文学的に言えば土壌、苗床――となり得るであろう。→
参考。
許筠(1569-1618)が『
洪吉童伝』を書いたのは、彼が李贄の著作にふれ、李贄が『水滸伝』『西遊記』他の小説を読み、読むだけでなく堂々と品評したことに影響を受けて、おのれもまた読みふけった結果、みずから筆を執るまでに至ったという説がある。これはつまり許筠は陽明学徒だったということだ。
朝鮮実学派の
丁若は『論語古今註』の中で屡々李贄の説を引いている。ただ彼は同時に我国の伊藤仁斎や太宰春台、荻生徂徠の説をも引いているので、この事は彼の視野の広さと公平な観点を証するものではあっても、直ちに彼が陽明学の信奉者あるいは親近感を抱く者であったことを必ずしも意味しない。
(汲古書院 2013年2月)