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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

犬塚弘/佐藤利明 『最後のクレージー 犬塚弘 ホンダラ一代、ここにあり!』

2013年10月23日 | 芸術
 植木等『夢を食いつづけた男』(朝日新聞社 1984年4月)は前に読んでいたが、あれは父親の伝記である。小林信彦『植木等と藤山寛美』(新潮社 1992年3月)で描かれるのはあくまで他人の目からみた植木等とクレージーキャッツ像でしかない。初めて当事者の回想を聴く。

(講談社 2013年6月)

井筒和幸監督 『パッチギ! LOVE&PEACE』(2007年)

2013年10月23日 | 映画
 第1作『パッチギ!』(2005年)に感動して観かけたが、”違う”感じがして、最初の20分ほどで止めた。前作とは異なるパラレルワールドの話だと思えばいいのだろうが、5年後に康介がいない点で(第1作の最後から判断している筈、そして桃子もいない)、『パッチギ!』とは趣旨が変わってしまっていると勝手に思った。

吉野裕子 『天皇の祭り』

2013年10月23日 | 日本史
 冒頭口絵の孝明天皇袞龍の御衣、そのカラー写真、前といい、背中といい、両袖といい、その至る所に刺繍された龍がことごとく三本爪である。ただし裏表の袖に描かれた龍だけは、それぞれ内側、すなわち玉体に近い方のそれも前足だけが四本爪になっている。理由は分からず。

(講談社学術文庫 2000年11月)

吾妻ひでお 『失踪日記』

2013年10月20日 | コミック
 自分の精神疾患と失踪、ホームレス生活、アルコール中毒に治療のため精神病院入院と、重く悲惨でさえある内容を、ドライなほどのユーモア感覚で他人が読める話にしているところが凄い。これまでに読んだ、この人が自らの経験を基にした『日記』物のなかでは、一番面白いと思う。ほかの日記ものとは異なり、自らの漫画家としての回想記・半生記の側面もあるが故に。

(イーストプレス 2005年3月)

Giulio Aleni(艾儒略) 『職方外紀』

2013年10月19日 | 世界史
 (『中國哲學書電子化計劃』『職方外紀』守山閣叢書本。および『維基文庫』『職方外紀』四庫全書本)

 「序」がいきなり「造物主之生我人類於世也、如進之大庭中令饗豐醼、又娛歌舞之樂也。」で始まることに驚く。まさにWest meets Eastである。
 さらいふたたび、巻一「亞細亞總説」が、「亞細亞者天下一大州也。人類肇生之地、聖賢首出之鄉。」で始まるので驚く。同上の感想。
 閑話休題、巻二「欧羅巴総説」では物理学を「察性理之道」(性理を察するの道)と訳してある。「費西加,訳言察性理之道」。形而上学(黙汰費西加)は「察性理以上之学」と。ところが巻四に「格物窮理」を実学の意味に使っている例があるので別の意味で驚いた。「至百年前西國有一大臣名閣龍者素深於格物窮理之學又生平講習行海之法」。閣龍はコロンブスである。ならばこの「格物窮理之学」は、天文学・地理学の類いを指しているであろう。
 内容は、今からみればそれほどたいした事は書いてはいない(量的にも少ない)。だが上に述べたような発見があった。

石原道博 『朱舜水』

2013年10月19日 | 伝記
 この伝記を読むかぎり、朱は当時において一般的な儒学・科挙教育を受けただけの、ごく普通の中国知識人のようである。方以智はまだしも、彼がなぜ顧・黄・王と肩を並べて“清初五大師”の一人に数えられるのか、わからない。

(吉川弘文館 1961年12月)

中純夫 『朝鮮の陽明学 初期江華学派の研究』

2013年10月18日 | 東洋史
 朝鮮へ王陽明の著作は王の存命中(1521年)すでに伝わっていたが、体系的な陽明学として成立するのは17世紀後半の由(朱子学者鄭斉斗の転向)。その間100年以上の懸隔があるものの、ベトナムに陽明学が入ったのが19世紀後半であることを考えれば、やはり早い伝播だと言っていいだろう。
 朝鮮陽明学の思想的な系譜は、後の実学に一部繋がっている。「心即理」(=理気二元論の否定、気一元論)と「知行合一」(=実行・実用に即した知のありかたを唱える)陽明学は、たしかに実学と結びつきやすいと思える。あるいはその思想的な基礎――文学的に言えば土壌、苗床――となり得るであろう。→参考
 許筠(1569-1618)が『洪吉童伝』を書いたのは、彼が李贄の著作にふれ、李贄が『水滸伝』『西遊記』他の小説を読み、読むだけでなく堂々と品評したことに影響を受けて、おのれもまた読みふけった結果、みずから筆を執るまでに至ったという説がある。これはつまり許筠は陽明学徒だったということだ。
 朝鮮実学派の丁若は『論語古今註』の中で屡々李贄の説を引いている。ただ彼は同時に我国の伊藤仁斎や太宰春台、荻生徂徠の説をも引いているので、この事は彼の視野の広さと公平な観点を証するものではあっても、直ちに彼が陽明学の信奉者あるいは親近感を抱く者であったことを必ずしも意味しない。

(汲古書院 2013年2月)

浦起龍 『史通通釈』

2013年10月17日 | 東洋史
 浦起龍(1679一1762)は清中期の学者。無錫出身。康煕時代に学校試に合格して秀才となったが、その後長く郷試に合格せず、約30年間、郷里で私塾を開いて教えていた。雍正七年(1729)に漸く科挙を突破して進士となり、府学の教授や書院院長といった教育関係の役職を授かる。以後彼は職務と平行して研究著作を進めたが、それは主として古典や先人のテキストの評注の校訂であった。自らの研究としては、『読杜心解』(杜甫の詩の研究と読解)、およびこの『史通通釈』がある。
 この『史通通釈』(乾隆十七・1752年)は、引退して故郷に戻った彼が、唐の劉知幾の『史通』に、著者による懇切な「釈」(語釈と句釈)と「按」(関係する史実や史料の紹介)を添えて著したものである。内容と体裁について、日本で言えば古文の教科書のごときものを考えればほぼ当たるであろう。長く勤めた役職の影響からか、初心者・中級者むけの教科書・参考書のような水準の出来となっている(たとえば版本の異同の確認やテキストの校勘にわりあい無頓着で、自分一個の判断で勝手に字句を改めた箇所があったりして、同時期や後世の研究者から批判されている)。
 この書においては「釈」も「按」も、テキストの語句の解釈と解読に役立つ情報知識の提供という位置づけが明快である。原書をダシに、おのれの学説を開陳するという中国の注釈家にしばしば見られる衒気がほとんどない。これはこの人物の学者としての創造性の限界を示すものかもしれないが、しかしかえってそのことによって、この著作が唐代の文言文と清代の文言文が語彙・表現、ときに文法において異なっていることのよい実証例となる結果になっている。

(上海書店 1988年3月)

江藩 『漢学師承記』

2013年10月16日 | 伝記
 同じ著者の『宋学淵源記』併収。
 あまり面白くない。某々が社会的存在として何人であったか、学者として何を専門とし、何如なる業績を著したかという事は書いてある。しかしその某が如何にその説を唱えるに至ったかについてはほとんど書かれていない。

(上海書店 1983年12月)