私が7,8歳のころ、父が将棋を教えてくれました。父は特に相手を探して指すような趣味を持ちませんでしたが、日曜日のテレビで放送される対局は、よく見ていました。
囲碁はわかりません。覚えようかと思ったことも無いではないのですが、ついにその気にならず今に至ります。そもそも覚えようと思ったのも、自分が打つより、観戦が面白そうだったからです。「コスミツケル」という謎の言葉は何を意味するのでしょうか。
坊さんには、囲碁のほうが縁が深いです。「本因坊」という名称のタイトルがあるくらいですから、馴染みも歴史的です。実際、坊さんで囲碁をたしなむ人はかなり数が多く、私が住職する寺の檀家には、昔、先祖が当時の住職に賭け碁で負けて、別の宗派から宗旨替えして来た家がありました。
私の将棋にまつわる記憶は二つあります。一つは、勝つと異様に嬉しく、負けると異様に悔しかったことです。
それは他のゲームや勝負事では経験したことのない質の嬉しさと悔しさでした。その底には、当時を顧みて率直に言うと、「馬鹿か利口かを決める勝負」というような思い込みがあったのだと思います。
このあまりに強い感情の振れを経験して、私はある種の危険を感じて怖れをなし、こういうこととはあまり関わり合いにならないほうがよいと思って、以後、将棋を遠巻きに見るようになった気がします。
ひょっとすると、プロになるような人は、むしろこの「危険」に強く引き寄せられた人たちなのではないでしょうか。
もう一つ、子供心に極めて印象深かったのは、テレビで見た「感想戦」というものです。
そもそも、勝ったほうもほとんど喜ばず、負けたほうも平然としていて、傍から見るとどちらが勝ったのかもわかりません。自分を驚かせたような強烈な嬉しさや悔しさが無いのだろうか? さらに不思議なことに、終わった直後、また二人で何事かを始めるのです。
「お父さん、アレ、何してるの?」
「二人で、今の戦いの反省会をしてるんだ」
私は仰天しました。そりゃ、勝ったほうはよいだろう。しかし、負けてほうは平気なのだろうか? 相手の成功と自分の失敗をいつまでも味わうようなことをして、それほど得るところがあるのだろうか?
「時には、2時間、3時間もすることがあるんだよ」
父から言われた時には、完全に異世界の人のように感じた記憶があります。
このような「感想戦」が習慣、あるいは制度としてあるゲーム、スポーツ、勝負事は、まず囲碁・将棋以外にありますまい。
今思うに、棋士も人、人並み、あるいは子供時代の私並みに、嬉しさも悔しさもあることでしょう。
しかし、この「感想戦」の存在には、単なる勝ち負けを超え、嬉しさ悔しさの感情を凌ぐ、囲碁・将棋そのものに深く魅入られ・魅惑された人々の精神の勁さを感じます。いわば、勝つことが目的で囲碁・将棋をしているのではなく、最高峰の囲碁・将棋の世界に参加するために、勝とうとしているのでしょう。
勝負のための囲碁将棋ではなく、囲碁将棋のための勝負。考えてみればこの当たり前なことの深い自覚に、「プロ」の「プロ」たる所以があるのだと、私には思えます。
互いに自分の事情とは別の次元で交わり、そのことにおいて自己を肯定する。自己の存在の仕方を一定の関係性から導くことは、仏教でいえば「縁起」でしょう。
その意味で、囲碁と将棋の対局は「空」の場を具現していると、最後に我田引水したいところです。
囲碁はわかりません。覚えようかと思ったことも無いではないのですが、ついにその気にならず今に至ります。そもそも覚えようと思ったのも、自分が打つより、観戦が面白そうだったからです。「コスミツケル」という謎の言葉は何を意味するのでしょうか。
坊さんには、囲碁のほうが縁が深いです。「本因坊」という名称のタイトルがあるくらいですから、馴染みも歴史的です。実際、坊さんで囲碁をたしなむ人はかなり数が多く、私が住職する寺の檀家には、昔、先祖が当時の住職に賭け碁で負けて、別の宗派から宗旨替えして来た家がありました。
私の将棋にまつわる記憶は二つあります。一つは、勝つと異様に嬉しく、負けると異様に悔しかったことです。
それは他のゲームや勝負事では経験したことのない質の嬉しさと悔しさでした。その底には、当時を顧みて率直に言うと、「馬鹿か利口かを決める勝負」というような思い込みがあったのだと思います。
このあまりに強い感情の振れを経験して、私はある種の危険を感じて怖れをなし、こういうこととはあまり関わり合いにならないほうがよいと思って、以後、将棋を遠巻きに見るようになった気がします。
ひょっとすると、プロになるような人は、むしろこの「危険」に強く引き寄せられた人たちなのではないでしょうか。
もう一つ、子供心に極めて印象深かったのは、テレビで見た「感想戦」というものです。
そもそも、勝ったほうもほとんど喜ばず、負けたほうも平然としていて、傍から見るとどちらが勝ったのかもわかりません。自分を驚かせたような強烈な嬉しさや悔しさが無いのだろうか? さらに不思議なことに、終わった直後、また二人で何事かを始めるのです。
「お父さん、アレ、何してるの?」
「二人で、今の戦いの反省会をしてるんだ」
私は仰天しました。そりゃ、勝ったほうはよいだろう。しかし、負けてほうは平気なのだろうか? 相手の成功と自分の失敗をいつまでも味わうようなことをして、それほど得るところがあるのだろうか?
「時には、2時間、3時間もすることがあるんだよ」
父から言われた時には、完全に異世界の人のように感じた記憶があります。
このような「感想戦」が習慣、あるいは制度としてあるゲーム、スポーツ、勝負事は、まず囲碁・将棋以外にありますまい。
今思うに、棋士も人、人並み、あるいは子供時代の私並みに、嬉しさも悔しさもあることでしょう。
しかし、この「感想戦」の存在には、単なる勝ち負けを超え、嬉しさ悔しさの感情を凌ぐ、囲碁・将棋そのものに深く魅入られ・魅惑された人々の精神の勁さを感じます。いわば、勝つことが目的で囲碁・将棋をしているのではなく、最高峰の囲碁・将棋の世界に参加するために、勝とうとしているのでしょう。
勝負のための囲碁将棋ではなく、囲碁将棋のための勝負。考えてみればこの当たり前なことの深い自覚に、「プロ」の「プロ」たる所以があるのだと、私には思えます。
互いに自分の事情とは別の次元で交わり、そのことにおいて自己を肯定する。自己の存在の仕方を一定の関係性から導くことは、仏教でいえば「縁起」でしょう。
その意味で、囲碁と将棋の対局は「空」の場を具現していると、最後に我田引水したいところです。