恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

番外:意味の前後

2020年07月26日 | 日記
 我々は誰一人として、生まれてくる理由を知らず、死ななければならない理由もわからない。そもそも、出生も̪死もそれ自体として体験できない以上、生まれた後や死ぬ前に他人から聞かされる「理由」語りは、正体不明の物事を云々する、御伽噺も同然である。

 つまり、我々の生や死には、それ自体として意味や価値はない。したがって、我々が今実際に存在していることついては、誰ひとりとして、それを無条件で肯定すべき理由を知らず、それを全否定する権利を持たない。

 生に意味や価値が生じるのは、死を選択できるにもかかわず、生を決断した時である。それ以前には何もない。決断の後に意味と価値がある。

 このとき、ある個人の決断がある個人の生に意味を与えるのでない。個々人の困難な決断の連続が、そのたびに人間が人間として生きる意味と価値を創造し、維持するのだ。なぜなら、生や死そのものに人称も個性もなく、誰もが生き、誰もが死ぬからだ。ならば、一人の生死の決断から生じる意味は、その他の生死にそのまま共有される。

「死ぬよりつらい」や「死んだほうがまし」と思うときに、死ではなく生を選ぶ行為のみが、この世に人が生きる意味と価値を生みだす。

 あらかじめ意味があって生きるのでない。死なない決断が意味を作るのだ。