恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

行為主義的「空」論

2020年06月20日 | 日記
 常に同一でそれ自体で存在するもの、それをインド古語では「アートマン(我)」と言います。今風に言うなら「実体」です。仏教は、この実体(我)について、「一切のものは実体ではない(非我)」、または「一切のものに実体は無い(無我)」と言います。

 そして、実体ではない、あるいは実体は無いままに、ものが存在している事態を「空」と言います。これは、上座部系仏教と大乗仏教に共通する最も基本的で、ユニークなアイデアの一つです。
 
 問題は、この「空」の解釈です。代表的な考え方は2つです。一つは「要素主義」、もう一つは「相互主義」です。

「要素主義」は、存在するものを要素に分解して、その組み合わせでものの存在を説明する考え方です。

 たとえば、我々の肉体はそれ自体として存在するものではなく、膨大な細胞の寄せ集めであり、その細胞は分子の、分子は原子の、原子は・・・・と説明していくわけです。

 しかし、このナイーブなアイデアは、少なくとも最終の「要素」は「実体である」と言って打ち止めにしないかぎり、成り立ちません。

 だとすると、これは「一切は実体ではない、一切には実体は無い」というテーゼに背反します。

「相互主義」とは、「ある存在Aは別の存在Bに依存して存在し、そのBはAに依存して存在する」と考える「空」論です。「それ自体として存在しない」ということを、「別のものに依存する」という理屈で説明します。

 このとき、「依存するもの」に「依存されるもの」が先行して、それ自体で存在することを否定するために、依存をすべて相互依存と考えることによって、あらゆる「実体」の存在を拒否するわけです。

 ところが、もしAとBが、どちらかが先行してそれ自体として存在するのではなく、相互依存のまま存在するというなら、AとBが相互依存したまま、それ自体と出現してきたのだと考えないかぎり、存在しようがありません。つまり、相互依存関係それ自体が「実体」化してしまいます。

 これらを避けて、私が考えるとすれば、それは「行為が存在を生成する」という「空」論です。

 釈尊は「行為によって賤しい人ともなり、行為によってバラモンともなる」と言い、「人間のうちで、牧牛によって生活する人があれば、かれは農夫であって、バラモンではないと知れ」と言っています。

 これを敷衍して言えば、机は机として使われることで机になり、それを使う人は、使用している間は、「机を使う人」として存在する以外、存在のしようがないということになります。「使う」行為が「机」と「人」を生成するわけです。

「実体」という概念の駆逐は、具体的な行為によって行う以外ないだろう、というのが私の一貫したアイデアです。

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