これまで私は、龍樹祖師の『中論』について再三言及し、その中観思想を支持し続けてきました。以前、ブッダの言葉は自分の救いだったし、『中論』は味方なのだ、などと言ったこともあります。
それにくらべて、大乗仏教思想のもう一つの雄、唯識思想については、さほど発言していません。最近、知人に「それは何故だ」と突っ込まれてしまいました。
私は唯識思想を軽視しているわけではありません。というよりも、中観思想に従って、それ自体で存在する「実体」を認めないまま、にもかかわらず「○○が存在する」と我々が認識する事態を説明しようとするとき、そのメカニズムの分析として、唯識思想はとてもよく出来ていると思います。
ただ、私が縁起の思想を言語の問題として捉え説明するとき、それはすでに唯識のパラダイムに近い方法を使っているので、今までことあらためて唯識思想を強調してこなかったのです。
それともう一つ。私は唯識思想を自分なりにカスタマイズして使っています。素直に唯識の論理に乗っているのではありません。
まず第一に、私は唯識思想を「深層心理学」のようには考えません。徹頭徹尾、認識論として考えています。つまり、我々の認識の構造を説明し批判する方法として利用しています。
第二に、すべての存在の発生元のように考えられる「阿頼耶識」(「根本識」「蔵識」の意訳もあり)を、私は言語のことだと考えています。
実際、阿頼耶識が内蔵するとされる「名言種子」は、事実上阿頼耶識の機能そのものですから、端的に阿頼耶識は言語なのだと言ったほうがよいと、私は思います。そうでないと、阿頼耶識が「万物の根源」のごとき形而上学的概念に転化する恐れが高いでしょう。
それに対して、唯識の「三性」思想は私の考え方そのもので、初めてこのアイデアを知った時には驚きもし、新しい援軍を得たようで嬉しかったことを覚えています。
実際には関係において存在するものを、「実体」と錯視して執着することを「遍計所執性」と言いますが、これぞ言語の機能です。関係性において存在する事態は「依他起性」、さらに「遍計所執性」的認識を脱して、存在の「依他起性」を確実に認識することを「円成実性」と説明するわけですが、この整理の仕方は実に見事です。
つまり、唯識思想は、我々が物事を認識する構造を説明するモデルとして、また縁起的実存を「実体」と錯視するメカニズムを説明する方法として、極めて使い勝手がよい仕上がりになっています。その場合、「阿頼耶識」はあくまで言語のことだと考えるのが、私の流儀というわけです。
それにくらべて、大乗仏教思想のもう一つの雄、唯識思想については、さほど発言していません。最近、知人に「それは何故だ」と突っ込まれてしまいました。
私は唯識思想を軽視しているわけではありません。というよりも、中観思想に従って、それ自体で存在する「実体」を認めないまま、にもかかわらず「○○が存在する」と我々が認識する事態を説明しようとするとき、そのメカニズムの分析として、唯識思想はとてもよく出来ていると思います。
ただ、私が縁起の思想を言語の問題として捉え説明するとき、それはすでに唯識のパラダイムに近い方法を使っているので、今までことあらためて唯識思想を強調してこなかったのです。
それともう一つ。私は唯識思想を自分なりにカスタマイズして使っています。素直に唯識の論理に乗っているのではありません。
まず第一に、私は唯識思想を「深層心理学」のようには考えません。徹頭徹尾、認識論として考えています。つまり、我々の認識の構造を説明し批判する方法として利用しています。
第二に、すべての存在の発生元のように考えられる「阿頼耶識」(「根本識」「蔵識」の意訳もあり)を、私は言語のことだと考えています。
実際、阿頼耶識が内蔵するとされる「名言種子」は、事実上阿頼耶識の機能そのものですから、端的に阿頼耶識は言語なのだと言ったほうがよいと、私は思います。そうでないと、阿頼耶識が「万物の根源」のごとき形而上学的概念に転化する恐れが高いでしょう。
それに対して、唯識の「三性」思想は私の考え方そのもので、初めてこのアイデアを知った時には驚きもし、新しい援軍を得たようで嬉しかったことを覚えています。
実際には関係において存在するものを、「実体」と錯視して執着することを「遍計所執性」と言いますが、これぞ言語の機能です。関係性において存在する事態は「依他起性」、さらに「遍計所執性」的認識を脱して、存在の「依他起性」を確実に認識することを「円成実性」と説明するわけですが、この整理の仕方は実に見事です。
つまり、唯識思想は、我々が物事を認識する構造を説明するモデルとして、また縁起的実存を「実体」と錯視するメカニズムを説明する方法として、極めて使い勝手がよい仕上がりになっています。その場合、「阿頼耶識」はあくまで言語のことだと考えるのが、私の流儀というわけです。