お父上を突然に亡くされたとのこと、お悲しみはさぞ深いと思います。偶々、私が最近にお会いした方は二人とも、長い介護の後、父上や母上を失った直後でした。しかもお二方とも「一人っ子」です。看取りは大変だったでしょうし、喪失感も大きいでしょう。
おなた同様、あのお二人も、「死んでしまったとは思えない。まだ自分の近くにいる気がする」とおっしゃっていましたが、実にそのとおりでしょう。ある人物が亡くなって、その身体が目の前から消えても、関係性は消えません。生きていようが死んでいようが、「親」は「親」です。
あなたの父上はまだ「死者」として立ち上がっていません。「死者」が立ち上がり、その「死者」と新しい関係を結ぶことこそが「弔い」の意味です。だから、「弔い」は長く続く。時間がかかって当たり前です。
ですから、悲しみを無理に止めようとしてはいけません。「あのとき、こうしておけばよかった、もっとできることがあったはずだ」という思いも、そのままにしておいてよいのです。
感情の流れは、無理やり堰き止めれば溢れてしまいます。そして、水路を設けて流さないと、これまた方向を失って収拾がつかなくなるかもしれません。
この場合の「水路」とは、あなたの日常です。どれほど感情が動揺していても、生活のパターンを決して変えないことです。日課と仕事のペースを守り、いわば首から上と首から下を切り離すのです。そして、日常の仕事が終わり、一人の時間が出来たときには、思うままに泣き、後悔があるなら、後悔すればよいと思います。
お腹は空きますか? 眠れますか? いささか残酷なことを言うようですが、どれほど悲しくても切なくても、食べられて眠れれば、大丈夫です。たとえ眠れなくても食べられれば、それで大丈夫です。しかし、食欲が無くなり眠れなくなったら、これは、心療内科等、しかるべき医療機関に相談した方がよいかもしれません。
いずれにしろ、この「弔い」には時間と手間と根気がいるものです。すぐに「立ち直る」必要はまったくありません。「クヨクヨ」しながら、時に涙ぐみながら、それなりの時間を過ごすべきです。あんまり早く立ち直ったら、故人もがっかりするかも。
いつか、必ず、「もしお母さんなら、こういうとき何て言うだろう。お父さんなら、どうするだろう」と思う時が来ます。これは「死者」からの呼びかけです。「死者」が立ち上がり、「死者」との新しい関係が紡がれ始めたのです。
この「弔い」の過程で、自分の悲しみを話せる相手がいるなら、それはとても貴重です。言葉が感情に輪郭を与え、少しずつ取り扱いやすくしていくからです。そういう人が身近にいるなら、大切にしなければいけません。
故人を思い出す以上の供養はありません。お墓参りもその一つですし、恐山に来て下さるのもよいかもしれません。しかし何よりも、自分の感情を決して否定せず、変に手を加えず、そのままに抱いて日々を生きる。今はそれをなすべき時なのだと、私は思います。
おなた同様、あのお二人も、「死んでしまったとは思えない。まだ自分の近くにいる気がする」とおっしゃっていましたが、実にそのとおりでしょう。ある人物が亡くなって、その身体が目の前から消えても、関係性は消えません。生きていようが死んでいようが、「親」は「親」です。
あなたの父上はまだ「死者」として立ち上がっていません。「死者」が立ち上がり、その「死者」と新しい関係を結ぶことこそが「弔い」の意味です。だから、「弔い」は長く続く。時間がかかって当たり前です。
ですから、悲しみを無理に止めようとしてはいけません。「あのとき、こうしておけばよかった、もっとできることがあったはずだ」という思いも、そのままにしておいてよいのです。
感情の流れは、無理やり堰き止めれば溢れてしまいます。そして、水路を設けて流さないと、これまた方向を失って収拾がつかなくなるかもしれません。
この場合の「水路」とは、あなたの日常です。どれほど感情が動揺していても、生活のパターンを決して変えないことです。日課と仕事のペースを守り、いわば首から上と首から下を切り離すのです。そして、日常の仕事が終わり、一人の時間が出来たときには、思うままに泣き、後悔があるなら、後悔すればよいと思います。
お腹は空きますか? 眠れますか? いささか残酷なことを言うようですが、どれほど悲しくても切なくても、食べられて眠れれば、大丈夫です。たとえ眠れなくても食べられれば、それで大丈夫です。しかし、食欲が無くなり眠れなくなったら、これは、心療内科等、しかるべき医療機関に相談した方がよいかもしれません。
いずれにしろ、この「弔い」には時間と手間と根気がいるものです。すぐに「立ち直る」必要はまったくありません。「クヨクヨ」しながら、時に涙ぐみながら、それなりの時間を過ごすべきです。あんまり早く立ち直ったら、故人もがっかりするかも。
いつか、必ず、「もしお母さんなら、こういうとき何て言うだろう。お父さんなら、どうするだろう」と思う時が来ます。これは「死者」からの呼びかけです。「死者」が立ち上がり、「死者」との新しい関係が紡がれ始めたのです。
この「弔い」の過程で、自分の悲しみを話せる相手がいるなら、それはとても貴重です。言葉が感情に輪郭を与え、少しずつ取り扱いやすくしていくからです。そういう人が身近にいるなら、大切にしなければいけません。
故人を思い出す以上の供養はありません。お墓参りもその一つですし、恐山に来て下さるのもよいかもしれません。しかし何よりも、自分の感情を決して否定せず、変に手を加えず、そのままに抱いて日々を生きる。今はそれをなすべき時なのだと、私は思います。