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恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

番外:今、ちょっと所感メモ

2016年11月10日 | 日記
 次期アメリカ大統領に決まった人が、選挙期間中に言ったことを今後額面通りそのまま実行するとしたら、我が国にとっては、

・憲法9条を変えて、徴兵制や核武装を含む「自主防衛」路線に転換し、

・「戦前」回帰的ナショナリズムを強化して、現憲法が保証する「基本的人権」に制限をかけるイデオロギー装置を準備する、

 そういう勢力が台頭する可能性が大きくなるでしょう。

 しかし、その勢力は、現自公政権を含む現体制側からは出ないと思います。なぜかというと、

 現政権的「ナショナリズム」は、日米同盟と経済成長(グローバル化が基本条件)を前提としているから、次期大統領の基本方針(自国第一主義と反グローバル主義)と相反する以上、そのまま通用しないはずです。つまり、「ナショナリズム」として上半身と下半身がねじれていて、機動力が乏しいわけです。

 したがって、私が予想する「勢力」は、欧米に遅れて、かつ欧米同様に、世間の「アウトサイダー」であり、かつアジテーションの天才的才能を持つ「ポピュリスト」として、賢い人物ならゆっくりと、笑みを浮かべながら、穏やかそうに姿を現してくるのではないでしょうか(体制内人間がいきなり立場を帰る可能性もあり)。

 言論と表現の自由をなるべく高度に確保し、多様な人々の共存が社会の将来にとって本質的な利益だと考える人々には、今後漠然とではなく、具体的な発言や行動の局面で「覚悟」を決めるべきときが、戦後初めて現実的にやってきたと言えます。

 いずれにしても、ついに、自分たちの国を、自分たちでどうしたいのかを、自分たちで決する、「民主主義」の意味と力が、私たちの国で根本から試される、ある意味で絶好の機会が訪れつつあると、私は思います。


捨てると持つ

2016年11月10日 | 日記
 いわゆる「ダイエット依存症」とボクサーの減量とは、何が違うのでしょうか?

 後者は試合への出場という目的があり、それが果たされれば終了します。つまり、減量は純然たる手段です。ところが、「依存症」は減量自体が目的なので、終わりがありません。

 私はこの「依存症的」な印象を、最近の「捨てる」ブームに持つのです。必要のなくなったものを捨てるというなら当たり前の話ですが、「捨てる技術」「断捨離」などの、捨てること自体に価値があるかのように語るフレーズを頻繁に耳にするようになり、その象徴的なイメージとして、例のスティーブ・ジョブズのほとんど何も無い部屋の写真を見せられたりすると、私はここにある錯覚を感じるのです。

 以前、「ゴミ屋敷」の記事を書きましたが、あれは言うなれば「所有依存症」です。

 しかし、よく考えてみれば、「所有」という行為の実質は、対象を「思い通りにできること」であり、ならば「思い通り」の中に「捨てる」ことが含まれます。すなわち、「捨てる」と「持つ」は同じ「所有」行為の両側面なのです。

「何でも持つ」行為そのものによって「思い通りにできる」自我をを幻想的に仮設し、自己の存在感を補強している「所有依存症」者に対して、「捨てる」行為も同じ作用を自我に与えているわけです。

 したがって、スティーブ・ジョブズのあの部屋も、実は所有の欲望を反照的に表現していると思います。つまり、彼の部屋のイメージが我々を誘惑するのは、ほとんど何もないあの状態が、反照的に「何でも入る空間」「何でも持てる場所」として現前しているからです。所有の欲望を正面ではなく背後から強烈に刺激するのです。

「思い通りにする」欲望とは「自己コントロール」の欲望であり、それはすなわち自己の実存の無根拠性を、幻想的に補填しようとするものです。

 釈尊の教えが、その最初から所有に批判的だったのは、闇雲な「禁欲」礼讃でも、ましてや「断捨離」誇示が目的だったのでもありません。その眼目は、所有行為が「自己」それ自体の実体的存在を錯覚させるメカニズムを、徹底的に暴露することにあるのです。