恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

戻っておいで

2016年07月10日 | 日記
思い付き禅問答シリーズ、梅雨のような、夏のような夜の一話。

高名な禅師が、ある大きな寺の住職をあなたの弟子にお願いしたいと依頼されて、門下の弟子の力量を試すことにしました。そこで、自分の前に水差しを一つ置いて、門下の弟子を呼び集めます。そして師匠は集まった弟子たちに問いかけました。

「諸君の前にあるこの物を水差しと呼んではいけない。ならば、君たちは何と呼ぶかね?」

まず師匠から指名されたのは、門下で最古参のリーダー役修行僧です。

「だからと言って、師匠、木っ端と呼ぶわけにもいかないでしょう」

次に答えるように促されたのは、台所係の後輩です。

「お前なら何と言う?」

問われるや否や、後輩は立ち上がると、水差しをいきなり蹴倒して出て行ってしまいました。

禅師は笑いながら、最古参を顧みて言いました。

「お前、後輩に出し抜かれたな」


この話の解釈も色々ですが、私は、仏教の言語観をよく表現している問答だと思っています。

禅師の「水差しと呼ばないで」と言うのは、言語の示す意味を実体視して、物の「本質」と誤解するような概念的思考を止めろという指示です。

その前提でさらに「何と呼ぶ」と問うのは、ただの思考停止ではダメで、通常の思考を初期化した上で、目の前のこの物に新たなアプローチをしなければならないことを教えるためです。

ところが、最古参は「木っ端とは呼べない」と、別の言い方を探るだけで、概念的思考から離れられません。

後輩が蹴とばしたのは、この概念的思考の習慣なのです。つまり、禅師が求めている議論とは土俵がまるで違うため、新しい水差しの呼び方など、出てくるはずが無いわけです。

したがって、実際、この話は新しい呼び方に言及していません。ただ、私は後輩に改めて問えば、「水差しです」と答えたと思います。しかし、その「水差し」は習慣化した概念的思考から出る答えではありません。

彼の台所係の修行において取り扱われるある物が、その取り扱われ方によって「水差し」になっていくのです。水差しとして扱う、使うという「縁」が水差しの存在を「起」こす。後輩はそうした実存の仕方を「水差し」と呼ぶわけです。

この話の続きを私が作るなら、後輩は台所から布巾を持って部屋に戻り、蹴倒した水差しを丁寧に拭き清め、禅師の目の前に戻し、厳かに合掌礼拝して、「これは水差しです」と言いました、というようなオチにするでしょう。