恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

震災5年

2016年03月10日 | 日記
 話は去年のことです。新幹線で恐山から東京に出たある日、年頃は私と同じくらいの、立派な体格の男の人と隣り合わせになりました。

「和尚さんの隣とは、何かいいことがあるかな」と、体格どおりの大きい笑顔と声で話しかけられ、途中まで気楽な四方山話をしながらご一緒したのですが、実はこの人は大震災の被災者でした。

 家族は無事だったそうですが、津波でご自身の家と親戚の方を失ったそうです。水産関係が生業で、しばらくは全く仕事にならず、ようやく最近になって目途がついてきたところだと言っていました。

「まあ、本当に海のお蔭でさあね。ひどい目にあうのも、暮らしていけるのも」

 別れ際、話の最後に、彼は何気なくそう言いました。ですが、私は、その言葉と声に、幾重にも折りたたまれた感情の襞を見る思いでした。

 こう言えるようになるまで、彼はどんなことを感じ続け、何を考えてきたんだろうか。

 体験は、それ自体としては無意味です。「体験」にさえなりません。あまりに衝撃的な体験は、衝撃として心身にダメージを与えても、記憶にさえまともに残らない場合があります(なのに、突如としてフラッシュバックするらしい)。

 体験がまさしく「体験」になるには、それが語られ意味付けられなくてはなりません。「自己」という「物語」の中に語り込まれ、ストーリーの一部に消化(あるいは昇華)されなくてはならないのです。

 あの日以来、彼自身の困難はもちろん、周囲には甚大な被害に遭った人も大勢いたでしょう。故郷の惨状は言うまでもありません。その彼がいま「体験」を語る言葉の核心に、「本当に海のお蔭でさあね」があるとするなら、私はこの言葉に畏怖に近いものを覚えます。

 ただ、そのとき、突然思い浮かんだのは、良寛和尚のことでした。我ながら聊かびっくりしましたが。

 私はいままで良寛和尚について公に語ったりものを書いたりしたことがありません。よくわからないからです。あの有名な書の文字をよいと思ったことは一度もないですし、残っている様々なエピソードや断片的な言葉にも大した関心は持ちませんでした。ただ、ずっと何となく不気味な人だなと思っていました。

 しかし、今般、私は不意に思い当たったのです。                                               
 
 良寛という人は、自分の存在や生を意味付けることを一切止めたか、する気がなかったのではないか。自分は以前から、存在に過剰な意味を求めようとすることこそ、「苦」の根源にある欲望だと考えてきたが、彼は考えるまでもなく「悟って」いたのではないか。

 あの字が練習の果ての「作風」なら、とんでもない戦略家だし、数々のエピソードが全部「ウケねらい」なら、鼻持ちならない。大地震に際して書いた手紙の文句として有名な、

「災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。これはこれ災難をのがるる妙法にて候」

という一節も、禅僧の「境涯」を示そうと意図していたなら、馬鹿々々しいほどわざとらしい。

 でも、もし、書きたいように書いた字があれで、その場の成り行きでやったことがエピソードになり、地震に見舞われた実感があの一節なら、話は違う。
彼は自分を「物語る」ことを放棄していたのではないか、存在と生に意味を一切求めなかったのではないか。

「うらを見せ おもてを見せて 散るもみぢ」という和歌が本当に彼の辞世の一首なら、彼は文字通り、ただの枯葉一枚に自分を見ていたのだろう。

 とすれば、やはり常人と隔絶した存在の仕方を全うした、おそるべき僧だったと思わざるを得ません。いまさらながら。