恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

Nさんに

2016年03月20日 | 日記
 Nさん。自分の子供をかわいいと思えない、愛していると言えないというお話を伺って、私は切ない気持ちになりました。そして驚いたのです。

 それというのも、10年くらい前から、時々そういうことを言う「お母さん」に出会っていたからです。それは、子育ての条件が厳しく親が疲弊している場合のみではなく、ずいぶん恵まれた環境にある人からも聞いたのです。ただ、その頃は、まだ特殊な事例だと思っていました。

 しかし、あなたのお話を伺って、これが決して「例外的な」事例だとは言えないのだと思い知りました。

 あなたが産科に入院してみると、同室になった女性たちが、予定日の近づくにしたがって、次から次へと夜中にベッドの中で泣くのだそうですね。訳を訊いてみると、異口同音に「子供が生まれてきても、嬉しいのかどうかどうかわからない」「こんなお母さんでごめんなさい」と嗚咽する。

 最初は不思議に思っていたあなたも、出産が間近になると彼女らの心情が身に迫り、いつのまにか泣いていたと言いました。そしていま、自分の子供を可愛く思えないと。

 私がまず心配だったのは、あなた以外の誰が、どの程度子育てに関わっているのかということでした。もしそれを全部一人で背負いこんでいるなら、その困難は「可愛がる」心の余裕を奪っていくに違いありません。

 昔、子供は親の「子宝」である以前に、ムラの「子宝」でした。親はもちろん、ムラが子供を育てたのです。重要な労働力予備軍だったからであり、世代の再生産こそムラの存続条件だからです。

 今や、家族の単位が小さくなった以上、子育ては「両親」の関わりが最低条件であり、夫婦と親子の関係の仕方を共同体(社会、あるいは国家)が規定し、共同体の存続が子育てにかかっている以上、著しく困難な子育ての状況(今や、一人親の育児、あるいは親の長時間労働が前提の子育ては、それ自体がかなりの困難を伴うでしょう)は、これを除去することこそ、親ではなく、共同体の決定的な義務のはずです。

 その上であえて言うなら、私は、親が子供を愛せなくてもかまわない、と思っています。そもそも、愛さなくてはならないという義務感で他人を愛せる人などいません。

 可愛いと思う気持ちは、子育ての原因ではなくて結果です。思い通りにならない、わけのわからない「生きもの」を、まずは勇気をもって正面から受け止めて、苦心惨憺しながら懸命に育てていると、そのうち可愛いと思える時があるかもしれません。それでよいと思うのです。ただ願わくは、あなたがいつの日も子供の「味方」であらんことを。

 けだし、親にとっての根本的な条件は、愛することではありません。責任をとることです。生まれたくて生まれてきたわけではない存在に対して、一方的にその存在を強いた人間が、一方的にその責任を果たすことです。

 まずは、きちんと食べさせて(飢えさせない)、清潔なものを着せて(凍えさせない)、安心して眠らせる(病気や危機から守る)、そして共同体が成員に課している生きるためのスキルを与える(教育をうけさせる)、その結果、子が自立できるようにする。

 生もう生むまいが、愛していようがいまいが、誰かに対してこの責任を自覚して果たす者を「親」と言うのだと、私は思います。そして、この「親」を守るのが、共同体の責任なのです(保育園を落ちた母親が「日本死ね」とネットで言うのは、果たすべき責任を果たさない共同体への当然の糾弾でしょう)。

 Nさん。あなたは話をしながら涙ぐんでいました。「子を可愛いと思えない自分」を責めていました。それはあきらかに「親」としてのあなたの「愛情」だと、私は思います。

 親子の関係は人それぞれです。私に言えることは限られています。それでも私は、あなたが、責任を果たそうとギリギリの努力を続ける、正真正銘の「親」に見えます。