最近、またしても私に「お前は輪廻を認めないのか」と迫ってくる人がいるので、あえて再度申し上げます。
以前にも書いた通り、「輪廻」という教説は、所詮考え方の問題だと思います。だから、「輪廻からの解脱」とは、「輪廻という考え方からの解脱」だと考えればよいでしょう。
だいたい、終始一貫した同一性を保つ「霊魂」みたいな、アイデンティティーを保証する何ものかが「生まれ変わり死に変わりする」という言い方・考え方は、どう見たって、無常・無我・無記・縁起をキー・コンセプトにする仏教のとるところではありません。
すると、「いや、仏教では、輪廻するのは霊魂のようなものではない。そんなアートマン(我)同様の何かではなく、命の流れのような、個人を超えた大いなる意識ようなものが輪廻するのだ」などと言い出す人が出てきます。いわゆる「無我輪廻説」的な物言いをするのです。
以前聞いた「無我輪廻説」は、川の流れにできる渦巻きを例に出すものでした。あるところでできた渦巻き(渦巻きA)が、流れの条件が変わって消え、流れの別のところに渦巻き(渦巻きB)が現れる。それが「輪廻」だと言うのです。
しかし、それですませるなら、所詮「私の先祖は徳川家康です」レベルの話です。輪廻と言うからには、「このA(徳川家康)が、こっちのB(私)になったのだ。B(私)と見えるものは、実は以前のA(徳川家康)なのだ」という主張でない限りは、「輪廻」になりません。それ自体としては不変の実体性を持つ何かが「生まれ変わり、死に変わりする」のだと言わないなら、説として無意味です。
ある神父さんが、「人類の圧倒的多数が前世を何も覚えていなくて、ごく稀な人にしか記憶がないなら、輪廻なんて教えは説いても無意味でしょう?」と言っていましたが、その通りです。いや、それでも「命が流れる」「意識が続く」と言うなら、「流れる」「続く」と言えばよいだけの話で、わざわざ「輪廻」などと言い出す必要は毛頭ありません。「無我輪廻説」などはほとんど詐称で、「無我持続説」が言い方として真っ当でしょう。
仏教において、最もユニークにしてオリジナル、そして決定的に重要な教説は、無常・無我・無記・縁起であり、「輪廻」説は余計である上に理論的に無理筋で、無くて構わないし、無い方がよいのです。
では、理論的に維持するのが無駄な「輪廻」説が、なぜ仏教に引き込まれて残存し、それどころか仏教の重要教説のような顔をして今なおのさばっているのでしょうか。
理論的に余計なものが存在し続けるのは、実践的な需要があるからです。
まず考えられるのは、人間に善悪を強制する道具としての意味です。善行を課し、悪行を禁じるとき、脅迫と利益誘導の手段として、「輪廻」のアイデアを使うのです。「善いことをすれば、良いところにうまれるよ。悪いことをすれば酷いところに生まれるよ」
このような取り引きレベルの話は、所詮世間の問題です。つまり、当時の在家者に生きている間の「処世術」として説く必要があったし、その需要もあったから、当時のゴータマ・ブッダ教団は「輪廻」説を必要と需要の範囲で使ったのでしょう。
だとすれば、こんなものを未だに我々が引き継いでいることは、著しく志の低い話です。理論的に無駄な「輪廻」説など放擲して、仏教は仏教でオリジナルな倫理説、善悪観を提出すればよいのです。私は、この倫理をめぐる議論が、今後仏教の中から数多く現れることに大なる期待を持っています。
もう一つ、「輪廻」説の実践上の需要は、非常に切実でとくに苦しい境遇にある人、たとえば人種や民族、身分や心身の障害など、生まれ・出自によって差別されたり抑圧されたりしている人が、自分の在り方を自己肯定する必要がある場合と、別の誰かが彼に自己肯定させようとする場合に、顕著に出てきます。
つまり、「なぜ自分は今、これほどつらい境遇にあるのか。どんな理由があるのか」という疑問に答える理屈として、需要があるわけです。自己の実存に対して理由や根拠を求める欲望というのは、人間にとっては致命的なことでしょう。それがつらい実存状況なら尚更です。そのとき、「輪廻」説というのは、非常に耳に入りやすいのです。
そして、この辛い境遇をその当事者に黙って甘受させたいと思う第三者にとっても、これは非常に便利な理屈です。つまり、その境遇は「自己責任」だと言って放置できるからです。
ということは、「輪廻」説は、「社会的強者」が「社会的弱者」を支配し・隷属させるイデオロギーとして、重要な役割を果たし得るわけです。インドにおいて、「カースト制度」が「輪廻」説とがっちりセットになり、かつて「強制隔離」措置の対象となった「ハンセン氏病」が「天罰」や「前世の因縁」で説明されていた(私はハンセン病治癒者から体験談を直接聞きました)ことを思えば、すぐにわかる話です。
だったら、「かースト制度」に反旗を翻した仏教が、「輪廻」説を後生大事にしている理由はいささかもありません。「業・因果」説は仏教に必須(このことは、また後日考えます)ですが、「輪廻」説は違います。ゴータマ・ブッダ自身が生前説いていようといまいと、これは仏教にとって本筋の教えでも大事なアイデアでもありません。「輪廻」説は仏教に要りません。我々はまさにそれから「解脱」すべきでしょう。
以前にも書いた通り、「輪廻」という教説は、所詮考え方の問題だと思います。だから、「輪廻からの解脱」とは、「輪廻という考え方からの解脱」だと考えればよいでしょう。
だいたい、終始一貫した同一性を保つ「霊魂」みたいな、アイデンティティーを保証する何ものかが「生まれ変わり死に変わりする」という言い方・考え方は、どう見たって、無常・無我・無記・縁起をキー・コンセプトにする仏教のとるところではありません。
すると、「いや、仏教では、輪廻するのは霊魂のようなものではない。そんなアートマン(我)同様の何かではなく、命の流れのような、個人を超えた大いなる意識ようなものが輪廻するのだ」などと言い出す人が出てきます。いわゆる「無我輪廻説」的な物言いをするのです。
以前聞いた「無我輪廻説」は、川の流れにできる渦巻きを例に出すものでした。あるところでできた渦巻き(渦巻きA)が、流れの条件が変わって消え、流れの別のところに渦巻き(渦巻きB)が現れる。それが「輪廻」だと言うのです。
しかし、それですませるなら、所詮「私の先祖は徳川家康です」レベルの話です。輪廻と言うからには、「このA(徳川家康)が、こっちのB(私)になったのだ。B(私)と見えるものは、実は以前のA(徳川家康)なのだ」という主張でない限りは、「輪廻」になりません。それ自体としては不変の実体性を持つ何かが「生まれ変わり、死に変わりする」のだと言わないなら、説として無意味です。
ある神父さんが、「人類の圧倒的多数が前世を何も覚えていなくて、ごく稀な人にしか記憶がないなら、輪廻なんて教えは説いても無意味でしょう?」と言っていましたが、その通りです。いや、それでも「命が流れる」「意識が続く」と言うなら、「流れる」「続く」と言えばよいだけの話で、わざわざ「輪廻」などと言い出す必要は毛頭ありません。「無我輪廻説」などはほとんど詐称で、「無我持続説」が言い方として真っ当でしょう。
仏教において、最もユニークにしてオリジナル、そして決定的に重要な教説は、無常・無我・無記・縁起であり、「輪廻」説は余計である上に理論的に無理筋で、無くて構わないし、無い方がよいのです。
では、理論的に維持するのが無駄な「輪廻」説が、なぜ仏教に引き込まれて残存し、それどころか仏教の重要教説のような顔をして今なおのさばっているのでしょうか。
理論的に余計なものが存在し続けるのは、実践的な需要があるからです。
まず考えられるのは、人間に善悪を強制する道具としての意味です。善行を課し、悪行を禁じるとき、脅迫と利益誘導の手段として、「輪廻」のアイデアを使うのです。「善いことをすれば、良いところにうまれるよ。悪いことをすれば酷いところに生まれるよ」
このような取り引きレベルの話は、所詮世間の問題です。つまり、当時の在家者に生きている間の「処世術」として説く必要があったし、その需要もあったから、当時のゴータマ・ブッダ教団は「輪廻」説を必要と需要の範囲で使ったのでしょう。
だとすれば、こんなものを未だに我々が引き継いでいることは、著しく志の低い話です。理論的に無駄な「輪廻」説など放擲して、仏教は仏教でオリジナルな倫理説、善悪観を提出すればよいのです。私は、この倫理をめぐる議論が、今後仏教の中から数多く現れることに大なる期待を持っています。
もう一つ、「輪廻」説の実践上の需要は、非常に切実でとくに苦しい境遇にある人、たとえば人種や民族、身分や心身の障害など、生まれ・出自によって差別されたり抑圧されたりしている人が、自分の在り方を自己肯定する必要がある場合と、別の誰かが彼に自己肯定させようとする場合に、顕著に出てきます。
つまり、「なぜ自分は今、これほどつらい境遇にあるのか。どんな理由があるのか」という疑問に答える理屈として、需要があるわけです。自己の実存に対して理由や根拠を求める欲望というのは、人間にとっては致命的なことでしょう。それがつらい実存状況なら尚更です。そのとき、「輪廻」説というのは、非常に耳に入りやすいのです。
そして、この辛い境遇をその当事者に黙って甘受させたいと思う第三者にとっても、これは非常に便利な理屈です。つまり、その境遇は「自己責任」だと言って放置できるからです。
ということは、「輪廻」説は、「社会的強者」が「社会的弱者」を支配し・隷属させるイデオロギーとして、重要な役割を果たし得るわけです。インドにおいて、「カースト制度」が「輪廻」説とがっちりセットになり、かつて「強制隔離」措置の対象となった「ハンセン氏病」が「天罰」や「前世の因縁」で説明されていた(私はハンセン病治癒者から体験談を直接聞きました)ことを思えば、すぐにわかる話です。
だったら、「かースト制度」に反旗を翻した仏教が、「輪廻」説を後生大事にしている理由はいささかもありません。「業・因果」説は仏教に必須(このことは、また後日考えます)ですが、「輪廻」説は違います。ゴータマ・ブッダ自身が生前説いていようといまいと、これは仏教にとって本筋の教えでも大事なアイデアでもありません。「輪廻」説は仏教に要りません。我々はまさにそれから「解脱」すべきでしょう。