恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

「本物」はウマイか?

2013年12月10日 | インポート

 人間の食行動、あるいは食べ物に対する最も基本的な態度は、それが「食べられるかどうか」で、このことは動物と共通です。そしてこれを判断できる人間は、とりわけ採集狩猟段階にある共同体では珍重され、敬意を払われたでしょうし、しまいには職業化さえしたでしょう。いわゆる「毒見役」です。

 食べられる物がある程度恒常的・安定的にに確保できる段階になると、次に問題となるのは、人間の場合、「栄養があるかどうか」です。

 これは要するに、労働に耐えられる身体を維持・強化できるかどうかという問題意識からくる食への要求です。すなわちそれは、共同体においてメンバーを長時間一斉に働かせるような状況(近代以降)が生まれたことを意味します。ここに対応する役目が「栄養士」でしょう。彼が必要なのは、人間が共同体において「労働する実存」として再構成され、身体がそうプログラムされたときなのです。

 さらに共同体内の経済的な富の蓄積が進み、そのメンバーへの配分がある程度行き渡って、労働条件が改善されたり、労働環境に余裕ができれば、今度は「おいしいかどうか」が問題になります。無論、「おいしいかどうか」は、「食べられるかどうか」「栄養があるかどうか」の段階でも重要な感覚であり判断基準です。動物でも、雑食性のものはこの判断が可能でしょう。

 ただし、人間の場合、「おいしいかどうか」が判断基準として前面にせり出してくるには、生活条件の向上が不可欠です。なぜなら、「おいしいかどうか」は単なる感覚ではないからです。人が「おいしく」感じる物は文化や生育環境によって違い、「おいしさ」が時と場合に左右される(「おいしい物」を食べ続けると「おいしく」なくなる)のは、それが本能的な感覚ではなく、すでに一定の観念化を蒙っているからです。

 ということは、「おいしい物」の判断には知的蓄積が必要なのであり、「おいしさ」が食べ物の判断の中心に位置するには、食材や調理法の選択肢や知識がかなり一般化しなければならず、それは生活に「余裕」がない限り不可能です。

 したがって、この段階では、「おいしいかどうか」を専門的に論評する「グルメ」「食通」が現れます。「おいしい」はまず何より評価であり、評価は知識が前提なのです。

 ここで問題なのは、「おいしいかどうか」が極めて観念的な判断に傾き、具体的な経験、身体性や身体感覚が希薄になってきていることです。「おいしい物」の判断が、上述のように環境や条件に左右されてなかなか一致せず、さらに先入観に支配されやすい(たとえば「食わず嫌い」)のは、その証拠でしょう。

 しかし、ここまで、すなわち「食べられるかどうか」「栄養があるかどうか」「おいしいかどうか」までの段階では、その判断の根底に身体性や身体感覚が厳然と、あるいはかろうじて存在します。

 ところが、次の段階、すなわち「おいしい物」に恒常的に接することができる段階になると、判断は完全に身体性を失って変質します。人々は「本物かどうか」を問題にするようになったからです。これが今般のホテルや百貨店の「食品偽装」事件の段階です。

「本物かどうか」は事実問題でもなければ、感覚対象でもありません。「本物」とは、「商品」の在り方を規定する市場が析出した、純粋な観念です。

「本物」は物体として存在しません。それは、市場が物体を「商品」化する際に採用した一定の手続きのことであり、いわば「物」語り=観念です。

 どんな杜撰なバックを作ったとしても、あるブランドが公認すれば「ひどい本物」であり、どれほど見事なつくりでも、ブランドの手続きから外れれば「すばらしい偽物」です。

 同様に、「本物かどうか」は「おいしさ」とほぼまったく関係がありません。「芝エビ」と「ナントカエビ」を味で区別できる人間がほとんどいない以上(だから「偽装」ができたのです)、「おいしさ」が問題なら、まずい「芝エビ料理」よりおいしい「ナントカエビ料理」のほうが高く評価されるべきでしょう。

 この「本物/偽物」という、身体性を失った幻想を欲する限り、これからも人間は食品に騙され続けるでしょう。

 時あたかも、「和食」が「文化遺産」になりました。「遺産」とは、すでに現実性を失ったものです。つまり、もはや日本人の大方は、普段「和食」を食べていないし作りもせず、日常的に食べたいとも思っていないということです(日本人がいま好んで食べているのは、ラーメンやカレーライスのような「日本食」です。これは現実ですから「遺産」になりません)。

 今後「和食」は、ますます特別な場合に「外食」されるものとなり、「文化」として保護され、「本物の和食とは何か」がさかんに議論されて、人は何度も騙されるようになるでしょう。騙されるのがイヤだと言うのであれば、要するに「本物かどうか」を問題にせず、判断根拠を「おいしいかどうか」以前にさかのぼらせて、一定の身体性を回復する必要があるでしょう。

 「精進料理」が本来、修行を支える身体に「その食べ物が薬のように有益かどうか」を判断の原則にしているのは、まさに「本物」幻想を解毒する、対極的行為でしょう。もし、料理人の誰かが「本物の精進料理とは?」と言い出すなら、彼はすでに「精進料理」を作っているのではありません。