恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

「罪」と「信」

2011年03月10日 | インポート

 理解できないものは信じられない、と言う人がいますが、理解できることは信じるまでもなく、理解するだけでよいはずです。理解できないものだから、そこに信じる行為が成り立つというものでしょう。「不合理なるがゆえに我信ず」と昔の賢人が言ったゆえんです。

 とはいえ、何がなんだかわからないものを信じるというのは、不可能に近いくらい難しいことです。ですから、そもそも絶対的な理念や絶対神的存在、定義上人間の「理解」を超えた存在性格をもつ何ものかを「信じる」とは、そもそもどういう行為なのかが問われざるを得ません。

 このとき、その絶対神的存在が、我々を「審判」したり「救済」するという権能を持つというなら、それを「本当に」「真剣に」「心から」信じているということは、いかにして自分にも他人にも納得させることができるのでしょうか。

 熱狂的な礼拝を際限なく繰り返そうと、いかに莫大な供物を奉げようと、それで信じる行為そのものの確かさ、「純度」を保証できるわけではありません。絶対神的存在から何らかの「御利益」を引き出すための取り引きでないとも限らないからです。

 おそらく、「信じる」行為は、それをどのように言語や身体行為に変換しても、変換した時点で、決定的に「純度」を毀損するでしょう。それは、誰にも決して「わからないもの」を自分たちに「わかる程度のもの」(たとえば、「相手は取り引きに応じるだろう」と考えない限り、供物は無意味)に変換することだからです。

 とすると、つまり、「絶対的存在を信じる」という行為は、その「絶対的存在」との関係でいくら考えても、「信じている」ことの強度や純度は実感できないことになるでしょう。

 そこで思いつくのは、目を信じられる神から信じる人間の側に転じてみることです。信じようとする者が自らの在り様を徹底的に批判・否定して、その苦境、悲惨、無力さを際限なく自覚し続け、そうすることによって、我々の実存を救済する能力の偉大さを反照的に強調して、この能力の持ち主の存在感を確保する、という手法です。要するに、「相対者の相対性を徹底的に暴露することで、絶対者の絶対性を高め続け、それで「信じる」行為のリアリティを担保しようというわけです。

 絶対神的存在を前提する救済型の宗教・宗派が「原罪」とか「罪業」を強調したり、いわゆる「悪人正機(正因)」説のようなアイデアを持つのは、こうした「信じる」構造があるからではないでしょうか。この場合の「罪」は、もはや我々の実存の別名です。実存の悲惨の根源として設定される「罪」の重さを自覚し続けることが、「信仰」の強度を備給し続けるという仕掛けです。

 そうなると、最終的には「救済される」という期待さえも「信じる純度」を濁らせる「取り引き」と思われるでしょうから、これを突き詰めると、「罪」的実存とされた我々は、「救済」の放棄という「絶望」において、はじめて「信じる」ことが成立する、という理屈になるでしょう。

 まさに、神の「沈黙」にどれだけ耐えられるかが、人の「信仰」を試すわけです。