恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

「無意味」な問答

2009年07月03日 | インポート

 某読書家「あなたは『真理』が嫌いだと公言したそうですね。どういうことですか?」

私「『真理』という観念、考え方、言葉が嫌いだという意味です。『真理』という以上、永久に変わらず、かつ普遍的でそれ自体で存在しえるもの、つまり絶対的なもののはずでしょう。そういう考え方が、もう生理的にダメなのです」

「生理的とは、いかにも『諸行無常』の一語に生き方を変えられたあなたらしいですな」

「だって、空間的にも時間的にもきわめて限定された条件の中で生きている我々に、永遠で絶対の存在を認識できるわけがないでしょう」

「しかしですね、『諸行無常』が認識できるということは、『無常』でない何かを我々が知っているからではないのですか。何かを否定できるのは、どんな形であれ、その何かの存在を認識しているからでしょう」

「さすがに鋭い。私もそう思います。ですが、私が『無常』でない何かとして考えているのは、『真理』ではありません。死です」

「死?」

「死は事実ではありません。観念です。にもかかわらず、いかなる内容も意味もありません。あるのは否定する機能です。死は、それが永遠か永遠でないか、絶対か絶対でないか、無常か無常でないか、なにひとつ『わからない』観念です。すべての観念や認識を否定し、それ自体は『問い』としてしか現前しません。すべてを無意味にすることが、死の唯一の『絶対的』な意味です。『意味ある死』などというのは、生きている人間が生きている間だけ考えているファンタジーです」

「あなたが言いたいのは、『無常』という観念さえ死で否定されるという、まさにそのときに、『無常』が認識されるということですか」

「というよりも、『わからない』死を『わからない』まま受容する認識が『無常』だということです。ということはつまり、生きることを無意味にするものを抱え込んだまま、人は生きるということになります。それが生きるということなのです」

「だとしたら、耐え難い以上に、馬鹿馬鹿しいですな」

「ですから人はみな『わからなさ』をすりかえて、わかったことにしたくなるでしょう。『生きがい』には道具がいるわけです。『真理』だの『絶対者』だのは、みなその類いだと思いますね。だって、そういう観念は、それを主張する人によくよく訊いてみると、死と同じように無内容で無意味で、最後には『わからない』話になりますからね」

「あなたはいつもそんなことを考えて生きているのですか」

「時々です」

「かなり苦しいでしょ」

「むかしは。今もちょっと。でも、生きているほうがよいです」

「どうして」

「理由はありません。そう信じているだけです」

「それでやっていけますか?」

「だって、生きていると、嬉しいこととか愉快なことが、たまにあるでしょ」

「ワハハハ・・・」

「アハハハ・・・」