命は大切なものだ、と最初から決まった話ではないでしょう。最初から決まった話なら、それを大声で言いながら、人類始まって以来、こうも互いに殺し合いを続けるはずがありません。そうではなく、誰かが命を大切にするから、それが大切なものになるのでしょう。
このとき、命とは生きていることと、死ぬことを意味します。つまり、命を大切にするとは、生きることと死ぬことを大切にすることなのです。
さて、昨今、臓器移植法という法律が「改正」されて、「脳死」が「人の死」にされ、家族のみの同意で臓器が摘出され、その提供に年齢制限もなくなりました。
私がここで言いたいことは、「脳死」を「人の死」と定めることや、そのほか、法律の内容の是非についてではありません。
しょせん「人の死」の判定なんぞは、「大人」と「子供」の区別と同じで、時と場合によって、必要に応じて適当に判断する以外に方法はなく、だからこそ「法律」で決めるのです(確かな判断根拠がないから、法律が必要なのでしょう)。
実際、人工呼吸器と臓器移植の技術が開発されなかったら、「脳死」など問題にされるはずもなく、ということは、今後、脳そのものの移植や、記憶をはじめ脳機能をコンピューター・チップにコピーする技術が開発されれば、現在の「人の死」の基準なぞ、あっという間にかわるでしょう。
いま私が関心を持つのは、現在の脳死と臓器移植をめぐる切迫した状況下で、臓器提供の可能性を持ちながら「死につつある」人間と、臓器提供を受けて「生き続けようとする」人間の間に生じている、アンバランスな人間関係、その構造です。
この場合、構造的かつ原則的に、医者も移植コーディネーターも、臓器提供を受けて「生き続けようする」人間の側に立つ人です。これは個々の医者やコーディネーターの思想・信条・人格・感性とは無関係で、そもそも人間関係の場における構造として、医者もコーディネーターも、移植手術を行うことにおいて、存在意義が生じる立場だということなのです。さらにまた、「生き続けようとする」側は、家族も大抵の場合、一致してそれを望むはずです。
ところが、臓器を摘出される側は事情が違います。その場の構造として、「死につつある」側に立つ人が圧倒的に少数で、弱いのです。家族でさえ、臓器提供か否かをめぐって意見が対立する可能性があるでしょう。
そこで、私は思います。宗教家、少なくとも仏教者は、法律の内容の是非にかかわらず、この人間関係のアンバランスな状況下において、弱い側の立場に寄り添うべきだと。そしてこの立場に立つことによって当然生じる社会的批判に、甘んじて耐えるべきだと。
新しい心臓を熱望する本人と家族と、それを是とする医者とコーディネーターの前で、いま「脳死」状態になっている息子の、事前の意志がわからぬゆえに臓器提供への同意をためらう母親が目の前にいるなら、仏教者は、母親の気持ちに寄り添う立場に立つべきだろう、ということです。
以前にも書いたことがありますが、「脳死」とセットになった臓器移植の技術には、科学技術が本質的に内包する「死への敵意」、つまり生産と消費とその効率を否定したり妨げるものに対する、根本的な敵意があるでしょう。「脳死」概念と移植技術の安直な拡大は、まさに根本的なところで、「命の大切さ」を侵害することになると、私は思います。