恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

「セレブ」の不安

2007年04月29日 | インポート

 ここ数年、頻繁に聞くようになった、いささか耳障りな言葉に「セレブ」というのがあります。どうやら、「上流階級」「金持ち」のようなニュアンスの言葉として使われているような気がしますが、英語のcelebrityは、「名士」とか「有名人」の意味です。

 この言葉がもてはやされるのは、それにあこがれている人が商売になるほど多いのか、テレビのワイドショーのネタとして面白いからなのかわかりませんが、そうなりたいと思っている人は少なくないのでしょう。

 人間は他者からの承認において「自己」たりうるのですから、「セレブ」であることこそ最も充実した「自己」の在り様だ、と思う人もいるかもしれません。が、それは違います。「セレブ」として羨望の対象となっているのは、「自己」ではなく、「自己」の「持ち物」です。

「持ち物」は金であったり、権力であったり、地位であったり、美貌であったり、才能であったり、人様々でしょうが、要はただの「持ち物」ですから「自己」そのものではなく、「持ち物」である以上、いずれは「手放さねばならぬ物」です。「持ち物」即「自己」という錯覚のまま生きられる人は、それはそれで結構な人生ですが、「持ち物」と「自己」が別だと気がついた「セレブ」は、不安を持たざるを得ません。そして、この違いに気がつくことは、仏教において大事なステップです。

 他者から「自己」が承認されるとは、すなわち他者と深く充実した関係を作るということは、「持ち物」の問題でないのです。私が思うに、こうした関係は、まず第一に、なんらかの経験を分かち合うことによって、とりわけ苦境を共にするような経験をすることから生まれてきます。いわば「同じ釜の飯を食う」ような経験です。

 もう一つ大切なのは、他者がそこに存在することへの敬意です。それは、彼がまさにそのような彼であることを理解しようとする、一種の想像力と言い換えてもよいかもしれません。

 経験を分け合うこと、そして他者へ敬意、この二つは、「自己」を確かに制作するときの、最も大事な条件にあたると、私は思います。