恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

双方向?

2024年12月01日 | 日記
 以前、精神科医の人と面談したことがあります。

「我々の場合、悩みがあっても、なかなか相談できる相手がいないんですよ~~」

 私がつい爆笑したら、彼もつられて大笑い。しかし、思えば精神科医が相談する相手というと、同業者にはしにくいでしょうし、先方も受けにくいでしょう。ではそれ以外に誰かいるか、そう考えるとむずかしいのかもしれません。

 この会話を皮切りに、彼とは色々な話をしましたが、特に興味深かったのは、彼には精神医学界の現状に思うところがあり、従来の精神医学の考え方や方法を「仏教の視点から解釈し直してみたい」、と言ったことでした。

 まさにこの逆を、私は、学生時代から永平寺の最初の数年にわたって、やっていたのです。

 当時から私は、仏教の無常無我の教えを、「あらゆるものには、そのものとしてある根拠が欠けている」ことだと、解釈していました。そして、何よりも「自己」なる存在がそうであると。

 西洋思想は違います。まず、人間を含めあらゆる存在は神に創造されたのですから、その被創造性において、神という確実な根拠があります。時代を下って、その神のリアリティが落ちると、「(われ)思う、ゆえに(われ)あり」と言い出す者が現れ、人間について、神に保証された「思う理性」を根拠の座に着けました。

 私は、この考え方を知った最初から、賛成できませんでした。「思う」からには、常に「〇〇を思う」のであり、ならば、「思う」は自己完結できずに、「思う」こととは別の〇〇(対象)に依存し、それ自体として成立しないからです。

「思う理性」は透明ではない。確実でもない。このことをさらに理論的に考える道具として、私が非常に感銘したのが、精神分析の創始者、ジークムント・フロイトの思想であり、ソシュールの言語学であり、マルクスの著作でした。これらは、人間の在り方が、言語により、経済の構造により、無意識をはじめとする身体からの作用によって、強く規定されていることを、驚くべき規模と鋭さで説いていました。

 さらに、ソシュールのアイデアとフロイトの無意識を結びつけた、ジャック・ラカンの主張を読んだ時には、唯識論の「阿頼耶識」という概念を思い出しました。無意識は言語によって構造化されているとラカンがいう時、私は唯識論の「言葉による熏習の種子」というアイデアを想起したのです。

 あの頃の私は、仏教を語る僧侶の言葉の、詰めの甘さに辟易していて、異なるジャンルの言説に可能性を見つけ、仏典や『正法眼蔵』の解釈に応用しようとしていました。まさに、精神科医の彼がしようとしていることの真逆です。

 彼との対話は、私の「邪道時代」を懐かしく思い出させるものでした。その功罪も。

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