恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

どこでも、いつでも、ちょっとでも

2019年06月30日 | 日記
「お前が今度出す本の表紙に、でかでかと坐禅姿が載ってるぞ。いい度胸だなあ!」というメールが知人から来ました。

 7月発刊予定のその本では、坐禅の作法を紹介する章の口絵写真と本体につける帯に、私の坐禅姿を使いたいという話を編集者からされて、何枚か写真撮影をしたのですが、表紙になるとは知りません。

 言われた通り、ウェブ上のショップで見てみると、なんと!?!

 帯と言うからには、本の三分の一程度の幅で、その右隅に私の写真がちょこっと使われ、残りに宣伝文句が入ってるのだろうと漠然と思っていたら、帯が全体の三分の二以上を占め、そのど真ん中に大きく私の坐禅姿があるのです。

 仰天です。その上「南流仏教入門書ついに成る!!」「私の考える仏教」などという惹句がついています。

 これはやりすぎだよお・・・・はずかしいよお・・・・出す前におしえてくれよお・・・・

 しかし、もう時すでに遅し!

 ただ、呆然としながら、しばし写真を見ていたら、坐相(坐禅の姿勢)自体は悪くないなと思えてきました。実は、私はこれまで自分の坐相を見たことがありませんでした。修行僧時代に一度、真後ろから坐禅姿を撮影されたことがありますが、正面は初めてです。

 そういえば、この撮影のとき、30代と思われるカメラマンが、写しおわった後に

「息してたんですか? 生きている気配がないですよ」

 と言い、立ち会っていた編集者も、

「そう、物みたい。それこそ仏像っぽい」

 この写真の撮影の時には、たぶん10分と坐っていません。ただ、事前に坐蒲(坐禅用クッション)を用意してもらったので坐りやすく、坐相の決まりもよかったのです。

 とはいえ、「生きている気配がない」とか「物みたい」という二人の感想は、かつて前永平寺貫首、宮崎奕保禅師の坐禅を見た時の私の印象とまったく同じでした。

 二人とも生身の坐禅姿を見たのはこれが初めてということでしたから、インパクトが強くて当座そう感じたのでしょうが、108歳の生涯を坐禅で打ち抜いた禅師に私が受けた印象と、同じようなイメージを彼らが持ったと言うなら、自分の坐禅も少しはものになって来たかと、じんわり嬉しい気持ちがしました。

「頑張って」坐っていた修行僧時代より、確実に進歩したことを一つ。

 永平寺に入ってから5、6年は、坐禅堂か、少なくとも畳の和室でないとまともな坐禅ができませんでした。そもそもする気にならないのです。

 ところが、その後永平寺の役職者になり、国内外の出張が多くなってからは、そんな「贅沢」は言えません。そこで、場所も時間も無視して、坐禅の出来はどうであろうと、とにかく1日1回は坐ると決めて、今までやってきました。

 このどこでもいつでも坐る(坐蒲の代用品には工夫が必要)ことができるようになったのが、おそらくは私にとっての明白な進歩であり、存外、大事なことかもしれないと、写真を見ながら思った次第です。