私は今までに何度か書評をする機会を与えられたことがありました。
以下は、茂木健一郎氏の『生命と偶有性』という著書についてのものですが、いま読むと、自分の仏教観がわりと素直に、かつシンプルに出ているので、畏れながら紹介させていただきます。
「あるべきはずのニルヴァーナ」
存在すること自体は取るに足りないことだろう。しかし、「なぜ」と問うなら、それは厄災となる。
不治の病に侵された者が、最愛の子供を奪われた者が、天災ですべてを失った者が発する、「なぜ」。
この言葉は理由を問うているのではない。そうではなくて、存在を問うている。彼らがそのように存在していることの無根拠さを露わにしているのだ。そこに、問う存在たる「人間」の絶対的な孤独がある。絶対的とはどういうことか。人は人であるかぎり、たとえやめたくても、「なぜ」と問うことをやめられない、ということである。我々は「なぜ、なぜと問うのか」とさえ問いうる。それこそが根源的な欲望、「無明」なのだ。
存在するものには根拠が欠けている。私が仏教から読み取った「諸行無常」の意味はそれである。このとき、なぜ「諸行無常」なのかを問い、「理由」を探そうとするなら、まさに厄災を招く「無明」となる。
仏教が私に示したのは、「なぜ」と問うことを断念せよ、ということだった。「なぜ私は存在するのか」と問うな。「どのように存在するのか」を問え。「すべては無常である。なぜか」ではなく、「すべては無常である。ならば、どうする」と問い続けよ。
それは無常であることに覚悟をきめながら、あえて自己であり続けるという困難を受け容れる意志である。
人間が「自己」という形式でしか存在し得ない業を背負うなら、いかなる自己であろうとするかを問い続け、「自己」を作り続けなければならない。
ならば「自己」とは、偶然の怒濤をあえて渡ろうとして、数々の難破の果てに、ついに彼の岸に乗り上げた必然という名の小舟である。渡り終わったとき、小舟は思い残すことなく捨てられる。ブッダの説くニルヴァーナを、私はそういうものだと思ってきた。
私が「無常」と言い続けてきたことを、本書で茂木健一郎氏は「偶有性」と言う。私が「厄災」と言っていることを、茂木氏は「奇跡」と言うだろう。つまり、私にとって存在は「苦」であっても、彼にとっては「美しい躍動」なのだ。
私は心底羨ましい。同じようなことを前提として考えながら、彼は存在を、生命を、享受し祝福しようとしている。
「クオリア」として開かれた彼の道程は、リアルとバーチャルの対立を無効にする、「あわい」としての「仮想」に至り、いま「リアル」を真に「リアル」として現成する条件たる、「偶有性」に届こうとしている。
私はこれまで、彼が次々に提唱する刺激的な言葉に接するたび、自分が学んだ限りでの仏教の考え方に引き寄せてみた。
たとえば、「空」や「縁起」を説く中観思想、認識の構造を明かそうとする唯識思想などとの関係に思いをめぐらすと、その底に茂木氏のアイデアに共通する水脈を感じざるを得なかった。
そればかりではない。私には及びもつかない茂木氏のずば抜けた知性が、客観的対象の単なる科学的理解ではなく、常に具体的な「一人称の生」、つまり「自己」をどう担っていくかに向けられていることを見れば、それが道元禅師の言う「自己をならう」修行、禅家が標榜する「己事究明」の姿勢と同じであることは、一目瞭然であった。
しかもそうすることで、彼は、私が打ち捨てられるべきだと思っている小舟を、慈しんでいるのだ。そこにはおそらく、私がまだ味わったことがない、求道の悦楽があるかもしれない。彼は言う。
「偶有性の本質を見失わない限り、私たちは戦慄し続けることができる。この一瞬は過ぎ去る。そして、何も死ぬことはないのだ」
だとするなら、その求道の果てにも、私が想像もできない、もうひとつのニルヴァーナがあるはずなのだ。茂木氏はそれを「無私を得る道」と呼ぶ。
「私秘的な体験に誠実に寄り添うことの中にこそ、巨大な宇宙につながる術がある。この認識こそが、これからの困難な時代に私たちの未来を照らす希望でなければならない」
この希望が「恩寵」でなくてなんであろう。
『波』(新潮社 2015年6月号より)
以下は、茂木健一郎氏の『生命と偶有性』という著書についてのものですが、いま読むと、自分の仏教観がわりと素直に、かつシンプルに出ているので、畏れながら紹介させていただきます。
「あるべきはずのニルヴァーナ」
存在すること自体は取るに足りないことだろう。しかし、「なぜ」と問うなら、それは厄災となる。
不治の病に侵された者が、最愛の子供を奪われた者が、天災ですべてを失った者が発する、「なぜ」。
この言葉は理由を問うているのではない。そうではなくて、存在を問うている。彼らがそのように存在していることの無根拠さを露わにしているのだ。そこに、問う存在たる「人間」の絶対的な孤独がある。絶対的とはどういうことか。人は人であるかぎり、たとえやめたくても、「なぜ」と問うことをやめられない、ということである。我々は「なぜ、なぜと問うのか」とさえ問いうる。それこそが根源的な欲望、「無明」なのだ。
存在するものには根拠が欠けている。私が仏教から読み取った「諸行無常」の意味はそれである。このとき、なぜ「諸行無常」なのかを問い、「理由」を探そうとするなら、まさに厄災を招く「無明」となる。
仏教が私に示したのは、「なぜ」と問うことを断念せよ、ということだった。「なぜ私は存在するのか」と問うな。「どのように存在するのか」を問え。「すべては無常である。なぜか」ではなく、「すべては無常である。ならば、どうする」と問い続けよ。
それは無常であることに覚悟をきめながら、あえて自己であり続けるという困難を受け容れる意志である。
人間が「自己」という形式でしか存在し得ない業を背負うなら、いかなる自己であろうとするかを問い続け、「自己」を作り続けなければならない。
ならば「自己」とは、偶然の怒濤をあえて渡ろうとして、数々の難破の果てに、ついに彼の岸に乗り上げた必然という名の小舟である。渡り終わったとき、小舟は思い残すことなく捨てられる。ブッダの説くニルヴァーナを、私はそういうものだと思ってきた。
私が「無常」と言い続けてきたことを、本書で茂木健一郎氏は「偶有性」と言う。私が「厄災」と言っていることを、茂木氏は「奇跡」と言うだろう。つまり、私にとって存在は「苦」であっても、彼にとっては「美しい躍動」なのだ。
私は心底羨ましい。同じようなことを前提として考えながら、彼は存在を、生命を、享受し祝福しようとしている。
「クオリア」として開かれた彼の道程は、リアルとバーチャルの対立を無効にする、「あわい」としての「仮想」に至り、いま「リアル」を真に「リアル」として現成する条件たる、「偶有性」に届こうとしている。
私はこれまで、彼が次々に提唱する刺激的な言葉に接するたび、自分が学んだ限りでの仏教の考え方に引き寄せてみた。
たとえば、「空」や「縁起」を説く中観思想、認識の構造を明かそうとする唯識思想などとの関係に思いをめぐらすと、その底に茂木氏のアイデアに共通する水脈を感じざるを得なかった。
そればかりではない。私には及びもつかない茂木氏のずば抜けた知性が、客観的対象の単なる科学的理解ではなく、常に具体的な「一人称の生」、つまり「自己」をどう担っていくかに向けられていることを見れば、それが道元禅師の言う「自己をならう」修行、禅家が標榜する「己事究明」の姿勢と同じであることは、一目瞭然であった。
しかもそうすることで、彼は、私が打ち捨てられるべきだと思っている小舟を、慈しんでいるのだ。そこにはおそらく、私がまだ味わったことがない、求道の悦楽があるかもしれない。彼は言う。
「偶有性の本質を見失わない限り、私たちは戦慄し続けることができる。この一瞬は過ぎ去る。そして、何も死ぬことはないのだ」
だとするなら、その求道の果てにも、私が想像もできない、もうひとつのニルヴァーナがあるはずなのだ。茂木氏はそれを「無私を得る道」と呼ぶ。
「私秘的な体験に誠実に寄り添うことの中にこそ、巨大な宇宙につながる術がある。この認識こそが、これからの困難な時代に私たちの未来を照らす希望でなければならない」
この希望が「恩寵」でなくてなんであろう。
『波』(新潮社 2015年6月号より)